[02]オーベンとネーベン

 研修の初日は自己紹介のあと、オリエンテーリングで終わり、本格的な研修は翌火曜日からはじまった。

 新研修医は「ネーベン」(「副」の意味のドイツ語)と呼ばれ、1年先輩の研修医、「オーベン」(「上」の意味)について、5月後半から1カ月余り、日常業務を学ぶ。ボクのオーベンになったのは、和歌山出身のK先生だった。

 K先生はイケメン、長身、スポーツ万能で、カラオケはプロ級、ボーリングもアベレージ200超えのスーパーマンのような人だった。研修医としても優秀で、知識量は半端でなかった。そんなK先生に、ボクは採血の仕方から、静脈注射、点滴、エラスター針(金属針とプラステックチューブの二重構造の留置針)の刺し方、ガーゼ交換、動脈穿刺、傷の縫合、切開排膿、カルテや処方箋の書き方など、あらゆることを習った。

 薬の名前も、学生時代に覚えたのは“薬名”(物質の正式名)なので、現場では役に立たない。処方箋に書くためには“商品名”を覚えなければならないからだ。同じ消炎鎮痛剤でも何種類かあり、のみ薬ばかりでなく、座薬や湿布や塗り薬などの外用薬、注射薬も静脈注射、筋肉注射、皮下注射の別があり、点滴も末梢静脈と中心静脈があって、あらゆる症状に合う薬を覚えなければならない。K先生は使う頻度の高い薬を、人間辞書のように次から次へと教えてくれ、ボクはそれを必死に手帳に書き留めて覚えた。

 検査オーダーの出し方や、返ってきた検査結果の判定、それに応じた処置や処方、発熱や頻脈、徐脈、尿量の減少、呼吸数の変化、吐血や下血、便秘や下痢、腹痛や嘔吐、黄疸、腹部聴診、圧痛と抵抗、腹膜刺激症状や、直腸指診など、優秀なK先生は自分ができるものだから、機関銃のように次から次への知識を披露してくれる。ありがたいとは思ったが、そもそも基本的な知識に欠けるボクには、研修というより特訓、いや、シゴキに近かかった。何度もギブアップしかけたが、K先生は忍耐強く付き合い、親切に指導を続けてくれた。

 そんな完璧なオーベンだったが、困ったこともあった。

 K先生は仕事熱心のせいか、当直のアルバイトと週末に和歌山の実家に帰る以外は、病院に寝泊りしていた。朝イチから病棟の処置やカルテ書きをして、午前10ごろに一段落すると、「エッセン(食事)に行こうか」となる。毎朝、近くの喫茶店で朝食を摂っていたのだ。

 ボクは家ですませているが、オーベンと行動を共にするからいっしょに食べる。昼になるとランチに行く。夕方近くなると、「外科医はいつ緊急手術で夕食抜きになるかわからんから、食べられるときに食べとこう」と、また食事に出る。ボクは帰宅すると妻が夕食を作って待っているので、都合1日5回の食事になる。激務でカロリーを消費したせいか、太りはしなかったが、胃の調子が悪くなった。

 それからもう一つ。K先生は外見、技量ともに申し分ないのだが、性格が個性的すぎて、協調性に乏しい一匹狼だった。ほかのオーベンからも浮いた存在で、指導医たちにも煙たがられていた。

「教授でも指導医でもまちがえることはある。おかしいと思うことは、はっきり言うべきやぞ」

 そう言って、堂々と指導医に反論したり、疑問を呈したりしていた。あとで、「あんなこと言っていいんですか」と聞くと、平気な顔で、「常に自分の頭で考えて、自分の意見を持つことが大事なんや」と強調した。

 たしかにそうだと思い、ボクも自分なりの意見を持つよう心がけ、7月に独り立ちをしたあと、K先生に倣って指導医に意見を言ったりした。K先生は優秀だから、意見にも説得力があったが、ボクはダメ研修医だったので生意気なことしか言えない。

 うんざりした指導医がボクに訊ねた。

「君は仕事ができんくせに、口だけは達者やな。オーベンはだれやったんや」

「K先生です」

 答えると、指導医は、「ああ、それでか」と即座に納得し、ボクに言い渡した。

「Kに教わったことは、すべて忘れろ」

 医シャは人間性も大事なんだと学んだ瞬間だった。

(2021.09.27更新)

[01]初日から遅刻

 今を去ること40年前。1981年5月16日に、第71回医師国家試験の合格発表があり、ボクはなんとか医シャになった。

 とは言っても、医シャとしての技量は何も身につけていない。学生時代は知識の詰め込みばかりで、採血さえしたことがなかったからだ。別にサボッていたわけではなく、資格のない学生に医療行為はさせられないので、だれでもそういう状況だった。

 だから、医師免許を取りたての者は、まず研修医になる。自分の希望する科に入り、指導医にいろいろ教わりながら実地訓練に励むのである。

 はじめに断っておくが、ボクは高校時代に小説家になることを思い立ち、医学部に入ってからもその気持が強かったので、勉強も実習も最低限のことですませていた。エネルギーの大半は、小説家になったときに役立つこと、本を読んだり、習作を書いたり、恋愛をしたり、酒を飲んだり、一人旅をしたりに費やしてきた。つまりは遊んで暮らしていた。

 研修先を決めるときも、医師としての志などはなく、消去法で選んだ。まず、眼科や耳鼻科などはつぶしが利かないので、内科か外科を選び、内科は勉強が忙しそうだから外科を選び、外科でも心臓外科や脳外科は緊急性が高いから、比較的のんびりできそうな消化器外科を選んで、当時の第二外科に入ることにした。

 大阪大学の第二外科は、消化器だけでなく乳腺なども扱っていたので、一般外科と称されていた。教授は名医として名高い神前(こうさき)五郎先生。神前教授は『白い巨塔』の財前五郎のモデルとも言われ(実際はちがうが)、准教授(当時は助教授)以下、講師から助教(当時は助手)に至るまで、名のある一流の外科医が揃っていた。当然、医局の雰囲気は厳格で、神前教授に至っては〝雲の上の人〟という雰囲気だった。

 第二外科の研修は、国家試験の発表の翌月曜日からはじまった。

 そのころボクは新婚ホヤホヤで、11日間の新婚旅行から帰ったばかりで、頭の中は新婚生活のスタートと仕事のスタートの比率が10:1くらいだった。そのせいか、研修の初日から妻共々寝坊してしまった。

「あーっ、もうこんな時間!」

 まず妻が絶叫し、ボクも布団をはねのけて飛び起きた。洗面もそこそこに大急ぎで着替え、朝食はもちろん抜きで、最寄りの駅まで走り、電車のノロノロ運転に苛立ちつつ、汗だくになって大学病院を目指した。

 初日は朝イチの医局会で、新研修医が自己紹介をする予定だった。それに間に合わなければ、研修を断られるかもしれない。大学病院に駆け込み、エレベーターに焦れながら8階のカンファレンスルームに行くと、すでに医局会ははじまっていて、最前列に教授が座り、横で医局長が司会をして、准教授以下、全医局員が整然と着席していた。その数約60名。ボクを除く新研修医11人は、最後列で身動きひとつせず姿勢を正していた。

 壁際を這うように通って後方に行くと、同輩たちが、こんな日に遅刻するなんてと、蔑みと苛立ちの眼でボクを見た。

 そのうち、医局会が終わって、新研修医の自己紹介がはじまった。それぞれが緊張の面持ちで名前と抱負のようなことを語る。当然、そつのない挨拶が続く。

 ボクは遅刻したせいで、最後に医局員の前に進み出た。

「すみません。初日から遅刻してしまったクゲです」

 大ひんしゅくを覚悟で思い切り頭を下げると、医局員たちの間からが笑いが起こった。ウケたのである。てっきり怒られると思っていたのに、笑いが取れたので、ボクは驚きながらも、なんだ、チョロイじゃないかと思ってしまった。

 これがボクが最悪のダメ研修医になった修行のはじまりだった。

(2021.09.20更新)