[36]料理店「ミマス」の思い出

 必要最低限のことしかしないダメ研修医のボクでも、自分の受け持ち患者さんの手術の日は、夜の9時、10時まで病棟の仕事にかかりきりのことがあった。

 当然、夕食など摂っているヒマはない。当時はコンビニも普及していなかったので、夜食を買いに行くわけにもいかず、空腹に苛まれることになる。そんなとき、ありがたかったのは、不定期ながら午後11時ごろまで営業している西洋料理店の「ミマス」だった。

 大学病院から北へ一筋入った薄暗い路地にある店で、真っ赤なプラスチックに白抜きで「ミマス」と書いた路上の看板が目印だった。深夜に低血糖でフラフラになりながら、足早に路地に向かい、この看板に電気がついていると、やれやれメシにありつけると安堵の息をついたものだ。

 しかし、研修医の仲間には、「ミマス」は評判がイマイチだった。店が古びていて、いかにも時代遅れという感じだったからだろう。老夫婦が切り盛りしていて、注文してから料理が出るまでに時間がかかり、それも若い研修医に不評だった理由かもしれない。

 ボクはこの店が好きで、深夜以外にもよく利用した。侘び寂の世界というのか、独特のレトロ感があったからだ。

 料理を担当する老妻は、やせた身体に油じみたエプロンを首から吊すようにかけ、静脈の浮き出た細い腕でフライパンを自在に操る。給仕担当の老主人は、下ぶくれの顔に度のきつい老眼鏡をかけ、皿の端についたソースを布巾で拭ったりしながら、きちんと正面を向けて客に差し出す。その仕草には素朴な矜持のようなものが感じられた。

 メニューもレトロで、「ポークソテー」「ビフカツ」「チキンブロセット」など、時代を感じさせる料理が黄ばんだ紙に書いてあった。一度、チキンブロセットを頼んでみると、金串に刺した本格的なもので、味もよかった。

 料理にはすべて「薬味」と称する福神漬けがついていて、注文を取ったあと、老主人は毎回、カウンター内の老妻に、「薬味をお出しして」と催促する。老妻は料理の途中でも手を止めて、福神漬けの小皿を用意し、老主人はそれを恭しく客に供する。必ず出すのだから、あらかじめ作り置きしておけばいいのに、そういうことはしないらしかった。

 ボクはこの店のカレーが好きで、よく注文した。ルウはよく煮込まれ、色は黒に近く、具はわずかな肉切れがあるかなしか。辛さは汗が噴き出すどころか、毛根が壊死するくらい強烈だった。

 あるとき、夕食時に行ってカレーを注文すると、老主人が「まだ仕込み中なので」と困った顔を見せた。ボクはすでにカレーの口になっていたので、30分くらいなら待つつもりで、「あとどれくらいでできますか」と聞いた。すると、「3時間ほど」と言われた。時刻は午後7時半くらいだったと思う。

「今日は仕込みが遅うなりまして。カレーは時間がかかりますんで」

 申し訳なさそうにそう言われて、仕方なくチキンブロセットを頼むと、老主人はすかさず老妻に、「薬味をお出しして」と言った。

 店名の謂われを聞くと、終戦間もないころ、梅田に店を開いて、そこに女優の三益愛子がよく来ていたことにちなんでつけたのだという。客席が百ほどもある大きな店で、店内に水槽を備えつけ、鯉を何匹も放って、それを見ながら料理を食べる趣向だったらしい。

「ミマスといえば、むかしは東京にも聞こえとりましたからな。料理人も外国で修業してきたようなのばっかり使うてました。そのうちのひとりは、今、東洋ホテルのコック長をやっとります。東洋ホテルはあれが行ってから、料理がおいしなりましたんや」

 店がヒマなせいもあって、老主人はボクにいろいろ昔話を聞かせてくれた。自分用の丸椅子に腰掛け、ボクのほうは見ずに、鼻眼鏡のまま思い出の糸をたぐるようにしゃべった。多くは自慢話なのだが、何とも弱々しい口調で、聞いていていやな感じはしなかった。どちらかというと、哀れを誘うものだった。

「こんなもんも、ようけ作って使うてました」

 老主人は引き出しからマッチを取り出して、ボクにくれた。赤字に白抜きで「ミマス」と書いたデザインは、表の路上看板と同じだった。

 食後には、福神漬け同様、毎回、コーヒーが出るのもこの店の特徴だった。こちらが少々急いでいても、是非にと勧める。しかし、それはネスカフェで、老妻が客の目の前で熱湯を注ぐのだった。受け皿もなく、スプーンをカップに突っ込んで供される。料理のあとにはコーヒーをという高級料理店の名残だったのかもしれない。