[06]糸結び地獄

 6月いっぱいでオーベンたちがいなくなると、7月からは新研修医だけで病棟の仕事をすることになった。心細い面もあったが、自分のペースで仕事ができるので、ある種の解放感もあった。

 7月に入ってすぐ、ボクは扁桃腺炎になり、38.5度の発熱とのどの激痛、それに全身倦怠で、朝起きられなくなった。今ならあっさり病欠するところだが、このときは独り立ちしていきなり休むのがまずいように思えて、無理やり起きて、妻に車で病院まで送ってもらった。間の悪いことに、そんな日にかぎって2人も新入院患者を受け持つことになり、業務過多でふらふらになった。

 研修医の1日は、だいたい次のようにはじまる。

 朝、出勤すると、まず研修医ルームで白衣に着替える。白衣は「ケーシースタイル」と呼ばれる丈の短いスタンドカラーで、ズボンも白衣用のものを履く。聴診器を首に掛け、靴はサンダルかスニーカー。胸には名札、ポケットにはメモ帳とペンライト、ボールペンを何本か。これが当時の研修医のスタイルだった。

 詰所に行くと、朝イチは看護師の申し送り時間だから、邪魔にならないように研修医用の机でその日の予定を確認する。受け持つ患者さんは、34人からスタートして、多いときで8人程度。それぞれの容態を確認したり、検査のオーダーを出したり、処方箋を書いたり、看護師への指示簿を書いたりと、朝から忙しい。

 書き仕事が一段落すると、ガーゼ交換に向かう。傷の状態の確認、半抜糸や全抜糸、ドレーンやペンローズ(薄い管)の抜去など、やることは多い。そのあとは受け持ちの患者さんの診察をしたり、新入院があれば、既往歴と現病歴を聞き、診察をして質問に答え、医局会での新入院紹介に備えて資料を揃えたりする。

 手術の日はだれかに代理を頼んで、朝から手術室に入る。午前中で終わることもあれば、午後からの手術もある。もちろん朝から晩までぶっ通しの手術もある。

 午後は疾患グループごとに開かれるカンファレンス(症例検討会)に出て、受け持ち患者の治療計画、容態、検査結果などを報告する。血液型の確認や、輸血のためのマッチング(準備した輸血が患者さんの血と異常反応を起こさないか、1パックずつチェックする)、止血機能を調べるために、注射針で患者さんの耳たぶを小さく切って、出血時間を調べる検査などもする。

 ほかにも、クルズスという勉強会や、指導医から与えられた宿題、文献調べなど、仕事の連続のようだが、息抜きも必要で、同僚とコーヒーを飲んだり、最上階のロビーで卓球をしたり、屋上を散歩したり、当直室で昼寝をしたりもした(息抜きの回数は、たぶんボクがいちばん多かった)。

 もうひとつ、研修医の仕事は糸結びの練習である。手術のとき、研修医は第一助手として執刀医が鉗子で止めた出血点の結紮をする。モタモタしていると、手術のリズムが崩れるので、手早くしなければならない。器械出しの看護師から長さ30cmほどの絹糸を受け取り、鉗子の向こうにまわして、流れるような動作で2回結んで男結びにする。

 浅い場所の結紮は比較的簡単だが、奥まった部位は人差し指を押しつけるようにして結ばなければならない。指が十分に届かないと、糸を引っ張ってしまい組織がちぎれる。当然、大目玉を食らう。結び目が緩かったり、あとで外れたりすると、術後出血ということになり、再手術か、場合によっては患者さんの命にも関わる。だから、動脈などは二重結紮をする。

 結紮の仕方は何種類かあり、指の動きが無意識にできるようになるまで練習しなければならない。はじめはうまくいかず、余計なところに力が入ったり、手首の角度が変になったりして、指がつり、指先が赤く腫れたりする。それでも糸結びがヘタだと、手術中に怒鳴られるので、練習せざるを得ない。場合によっては、苛ついた指導医に鉗子で手の甲を叩かれたり、手術台の下で足を蹴られたりもする。

 外科医として腕を上げたい者や、出世を目論む者は「糸結び11000!」などと気合いを入れて練習していた。練習用の糸はそこここに置いてあって、机の脚や引き出しの把手、マグカップの持ち手などに掛けて結ぶので、そこら中に団子結びを連ねた絹糸がぶら下がっていた。

 指導医も練習を奨励し、ときどき詰所で研修医に実演させて、速さを競わせたりした。ボクはそういうのは苦手なので、気配を察すると、すみやかに息抜きに行くことにしていた。たぶんダメなヤツと見られていたが、慣れれば別にどうということもなかった。

(2021.10.25更新)

[05]独り立ち間近

  オーベンのK先生についた1カ月余りは、文字通り多忙な日々だった。

 研修がはじまって2週目の土曜日に、オーベンと若手の指導医がネーベン歓迎の野球大会を開いてくれた。久しぶりの息抜きで、楽しみにしていたら、その日の昼前、腸閉塞の患者さんが緊急入院して、K先生が受持ちになった。午後から手術をするというので、これは野球に行けないなと思っていると、「君は野球に行っていいで」と、K先生が言ってくれた。ボクがあまりにがっかりした顔をしていたので、やる気のなさを見抜いたのだろう。ではお言葉に甘えてとグラウンドに向かったが、熱心な研修医なら当然、手術に立ち会って勉強するところだ。

 日々の研修でも、ボク以外の研修医は遅くまで病棟に残って、オーベンや指導医からいろいろ学んでいた。ボクは特別な用事がないかぎり、定時になると帰っていた。何しろ新婚なのだから、地に足が着いていない。K先生にも「君は脱兎のごとく帰るなぁ」とあきれられていた。

 この1カ月余りは、K先生の患者をいっしょに受け持ったが、印象に残っているのは、81歳の直腸がんの患者Fさんだ。手術はがんの切除と人工肛門の造設で、高齢なので麻酔のあとは錯乱するかもしれないと言われていた。手術直後はよかったが、少しすると高熱を出して興奮した。K先生はじっとようすを診て、「これは感染やな」と言い、手術の傷ではなく、肛門のほうを調べた。赤黒く腫れた肛門をメスで切開すると、大量の膿が出た。K先生はそのにおいだけで、「嫌気性菌や」と言い当て、適切な抗生剤を選んで、Fさんを回復させた。

 手術後の発熱は、手術したところが原因だと考えがちだが、別の部位も忘れてはいけないと学んだ一件だった。

 もう1人、Yさんという総胆管がんの患者さんもいた。この人は第三内科の指導医Y先生の父親で、主治医は息子のY先生が務めていた。手術をするということで、第二外科に紹介され、K先生が受持ちになった。

「これはたいへんな手術になるぞ」と、K先生は深刻な顔で言い、ボクを大学の図書館に連れて行った。関連の文献を調べるためで、そこまで熱心にするオーベンは、K先生だけだったと思う。

 総胆管がんの手術は、根治を目指す場合、総胆管、胆のう、十二指腸、胃の下1/3、さらにがんの広がり具合によっては、すい臓や肝臓の一部も切除する大がかりなものになる。当然、術後管理はたいへんで、何日も病院に泊り込まなければならない。

「この患者は君が中心になって診てくれ」とK先生に言われ、ボクは憂うつになった。

 ふつう、大きな手術の患者を受け持てば、それだけ学ぶことも多いので、熱心な研修医は喜ぶところだが、ボクは小説と新婚生活に気持ちが向いていて、病院の仕事で時間を取られるのがイヤだった。

 前後するが、この前の年、国家試験の勉強中にも拘わらず、ボクはそれまで書き溜めた短編を小さな本にして自費出版していた。今年も出そうと思っていたが、さすがに国家試験の直前は書けなかったし、国家試験のあとは結婚式と新婚旅行が控えていたので書けず、研修医になったら書こうと秘かに心づもりをしていたのだ。だから、できるだけ自分の時間がほしかった。

 もちろん、そんなことはだれにも言えない。Yさんの手術の準備をはじめたが、息子兼主治医のY先生があれこれ細かい注文を出し、さらに余病を診るため第二内科、脳外科、眼科も関わってきて、カルテをまとめるだけでもたいへんだった。

 どうなることかと思っていたら、Yさんの容態は急速に悪化して、手術どころではなくなり、10日ほどで亡くなった。ボクが当直のアルバイトに行っていた夜で、病棟から電話がかかってきて、午前3時半ごろタクシーで駆けつけると、すでに亡くなっていた(亡くなったのは第三内科の病棟で)。

 大学病院で亡くなると、解剖するのが通例だが、Y先生は受け入れず、解剖は行われなかった。K先生は「わがままやな。どれだけ大学に世話になってると思ってるんや」と、怒っていた。

 Yさんは息子が阪大病院の医シャで、主治医のY先生は優秀な指導医で、しかも父親思いだったから、考え得る最高の医療を受けたはずだ。それでも死ぬ人は死ぬんだなと、認識を新たにした一件だった。

 6月も下旬になると、我々新研修医も日常業務はこなせるようになり、K先生を含め、オーベンたちは病棟に顔を出さなくなった。いよいよ独り立ちが近づいてきたのだ。

 オーベンたちは自主休暇で、中には海外旅行に出かけた人もいた。それで、ボクも1年頑張ったら、ご褒美に長期休暇が取れると思い、俄然、元気が出てきた。

 しかし、これが後日、大失態につながるとは、このときは夢にも思わなかった。

(2021.10.18更新)

[04]不安な当直アルバイト

 研修医の夜のお仕事に、一般病院の当直のアルバイトがあった。オーベンの研修医からを引き継ぐもので、ボクもK先生から2カ所のバイト先を紹介してもらった。

 当直のアルバイトはいわば夜間の留守居役で、入院患者に必要な対応(看取りもある)と、救急外来の患者さんの診療が主な仕事だ。

 最初の2回はK先生といっしょに当直したが、あとはひとりで行った。運がよければ寝ているだけの楽なバイトだが、運が悪いと何度も起こされ、翌日は寝不足のまま仕事をしなければならなくなる。若いから耐えられたのだろうが、夜中の緊急手術で一睡もせずに大学病院にもどったこともあった。

 はじめのころは、当然、不安だった。ボクは外科の研修医だが、夜間の救急外来にはあらゆる科の患者が来る。もちろん、どう対応していいのかわからない。そんなときのために、たいていの当直室には、『今日の治療指針』という分厚い本が備えてあった。これにはすべての科のあらゆる病気の治療法が書いてあるので、これさえ読めばたいていの患者に対応できた。

 救急外来の患者が来ると、看護師から当直室に電話がかかる。すぐに出動するのではなく、まず「どんな患者さん?」と聞く。あらかた症状を聞いて、貧弱な知識を総動員して、該当しそうな病気を思い浮かべる。慣れた看護師だと、「尿管結石の発作です」とか、「熱性けいれんです」などと教えてくれる。そうなればしめたもので、『今日の治療指針』の該当箇所を頭に叩き込んで、やおら白衣を羽織り、外来に下りていくのである。

 重症やほんとうに緊急性のある患者さんが来た場合は、その病院の院長や常勤医に連絡する。院長らは自分の病院で医療ミスがあったら困るので、たいていすぐに駆けつけてくれる。つまらないことで呼んでも、めったに怒られない。ボクは鼻血が止まらない患者が来たとき、1時間頑張っても止血することができなかったので、院長に来てもらった。そのときも院長は怒らず、ベロックタンポンという特殊な止血法を教えてくれた。病院としては、常勤医を呼ばずに研修医が勝手な処置をするほうが心配なのだ。

 そんな新米が当直していると知ると、患者さんは不安になるだろうが、泊っている研修医も不安だった。万一、医療ミスを犯すと大問題だし、場合によっては医療訴訟、医師免許の剥奪にもつながりかねないからだ。

 実際、ボクの身近でも恐ろしい話が伝わっていた。未熟な判断ミスや、対応のまずさが原因で、後日、患者さんが亡くなったというのだ。いずれも常勤医を呼べばよかったのだろうが、その場ではそういう判断に至らなかったらしい。

 一般にこういう状況を放置していてはいけないということで、2004年の新診療研修制度では、研修医の当直アルバイトが禁止された。当然のことと思われるかもしれないが、これには大きな弊害があった。

 そもそも研修医がアルバイトに行くのは、月10万円ほどの研修手当だけでは生活できないからだ。新臨床研修制度では、アルバイトを禁じる代わりに、研修医の手当を30万円程度に引き上げた。実力もなく、指導医にいろいろ教えてもらう立場の研修医が、そんな高報酬を受け取るのはおかしい。指導する助教のほうが薄給という事態も生じている。

 さらに、安い当直料で来てくれていた研修医が来なくなり、ベテランに頼むと当直料が嵩み、それを避けると常勤医の当直ローテーションが厳しくなり、経営不振や激務に耐えかねた医師が退職する病院が増えた。大学病院への医師引き上げも重なって、医療崩壊が進んだとも言われる。

 そればかりか、新卒者が大学病院ではなく、一般病院で研修するケースが増えて、医局制度の崩壊にもつながった。医局制度には問題もあったが、医師の信用保証や、僻地病院への医師派遣、人事の調整、トラブルの解決など、担ってきた役割も多い。

 研修医の当直アルバイトも、危険はあったが、たいていの場合は常勤医を呼ぶことで事なきを得ていたし、ボク自身振り返っても、ひとりで当直することでいろいろなことを学び、自信を深めることもできた。

 問題があるから改善するという姿勢では、新たに想定外の問題が起こる。問題があっても、ある程度は受け入れるほうが無難かもしれない。

(2021.10.11更新)