[24]不思議な誤診

 研修医のときの話ではないが、医シャの患者説明に関するエピソードをもうひとつ。

 ボクの妻の母が、K中央病院に健康診断を受けに行ったときのことだ。そのころボクは卒後3年目で、大阪府立成人病センターの麻酔科に勤務していた。

 胃カメラをしてくれたのが、たまたま研修で同期だったYだったので、お礼方々、電話で結果を聞くと、Yはあっさりとこう言った。

「ああ、お義母かあさん、ボールマン3型の胃がんや」

 ボールマンの分類は、胃の進行がんを表し、3型は周囲に浸潤(しんじゅん)のあるタイプで、悪性度はかなり高い。

 患者さんのがんについては、これまでふつうに同僚と話していたが、義母のがんを知らされたときのショックは、予想外に大きかった。義母は自覚症状もなかったので、心の準備ができていなかったこともあったかもしれない。それ以上に、浅はかなことだが、他人の病気と身内のそれのちがいを、はじめて身をもって体験したのだ。

 当然、妻もショックを受けるだろうし、これから手術、抗がん剤治療、さらには最悪の場合、死も覚悟しなければならない。というか、むしろ早死にはほぼ確定という気持ちだった。多くのがんの患者さんの死を経験していれば、当然だろう。

 1週間後、病理検査の結果が出るのを待ってYに連絡すると、「がん細胞は出なかった」との答え。もしかしたらがんではないのかと、一瞬、希望を胸に「良性の可能性もあるのか」と勢い込んで聞くと、Yはこともなげに答えた。

「たまたま出んかっただけやろ」

 生検(鉗子で組織の一部を採取すること)の場所が、悪かっただけというわけだ。

 このとき、ボクたち夫婦にはまだ子どもがいなかった。このままだと義母に孫の顔を見せられない可能性もある。焦ったが、急に妻を妊娠させるわけにもいかず、仮に妊娠しても、生まれるまで義母が生きているかどうかもわからない。

 それより大事なことは、一刻も早く手術でがんを取り除くことだ。K中央病院には、研修医のときにお世話になった食道胃疾患グループのチーフだったO先生がいるので、お願いしてもよかったが、当時、父が国立大阪病院(現・国立病院機構大阪医療センター)の麻酔科にいたので、そちらで手術を受けることになった。

 O先生に電話でその旨を連絡すると、ボクを気遣うように言ってくれた。

「お義母さんの胃カメラのフィルム、見せてもらった。どうやらボールマン3型のようやが、手術は十分できると思う。ただし、急いだほうがいいやろうな」

 その声には思いやりがあった。O先生はボクを元研修医としてではなく、患者の身内として扱ってくれたのだ。

 かたや、Yはボクの同期だし、同じ医シャ同士だからという気持ちで、率直に告げたのだろう。もちろん悪気はないはずだ。しかし、ベテランと新米では、こうも配慮がちがうのかと思わざるを得なかった。大袈裟に言えば、絶望を突きつけられるのと、まだ希望はあると感じさせてもらうかのちがいだ。

 12月の半ばだったので、何とか年内に手術をと思ったが、義母に話すと、ちょっと待ってほしいと言われた。理由を聞いてあきれた。村で作る味噌を仕込む当番に当たっているから、それをすませてから入院したいというのだ。

 味噌作りと命のどちらが大事なのか。そう思ったが、当時はまだがんの告知をしない時代だったので、義母には重症の胃潰瘍だとしか話していなかった。妻や義父にはがんだと告げていたので、まわりは焦ったが、あまりせっつくと、がんだと気づかれる恐れもあり、もどかしい思いを堪えつつ、味噌作りを優先することになった。

 年明け早々に入院したが、K中央病院の検査でがん細胞が出ていなかったので、再度、国立大阪病院でも胃カメラをしてもらった。父が担当医に印象を聞くと、大きな潰瘍はあるが、がんには見えないとのことだった。

 果たして、1週間後に出た病理検査の結果は、がん細胞なし。念のために、もう1週間置いて再々度、胃カメラをしてもらったが、潰瘍はさらに小さくなっていて、病理検査でもがん細胞は見つからず、結局、義母の診断は胃潰瘍ということで落ち着いた。

 要するに、K中央病院での胃カメラは、潰瘍の状態が最悪のときに行われたということらしい。その割に胃痛などの症状がなかったのは不思議だが、研修医上がりのYは別として、ベテランのO先生までがボールマン3型と言ったのだから、ボクは胃がんにまちがいないと覚悟していた。それがただの胃潰瘍だったとは・・・。

 信じられない思いだったが、義母は手術もせず、飲み薬だけで快復して退院した。87歳の今も元気でいるのだから、やはり胃がんではなかったのはまちがいない。