[52]笑気ガス体験

 笑気ガスは、全身麻酔のベースとして、酸素と半々に混合して人工呼吸に使う。意識はそれでほとんど取れるが、鎮痛効果が十分でないので、吸入麻酔剤や麻薬を追加して、本格的な全身麻酔にする。

 笑気ガスは、正式名を亜酸化窒素(NO)といい、18世紀にイギリスで発見され、吸うと陶酔感が得られるので、当初はパーティーを盛り上げるためなどに使われたらしい。その後、麻酔作用があることがわかり、医療用に使われるようになった(Wikipediaより)。

 手術室には酸素と笑気ガスの2本の配管があり、天井からホースがぶら下がっていて、それを麻酔器につないで使用する。もちろん、麻酔の目的以外で使うことは許されない。

 が、好奇心旺盛な研修医は、こっそりそれを試したくなり、空いている時間に、空いている手術室で、ボクを含む3人が少し笑気ガスを吸ってみた。黒いゴムマスクを口に当て、はじめは恐る恐る吸っては口から放していたが、徐々に大胆になり、大きく吸い込むと、頭がクラクラしはじめた。

 見つかったら大事になりかねないところだが、笑気ガスで気が緩んだのか、3人はまるで中学生がタバコをまわしのみするように、ゴムマスクをやり取りした。

 そこへ突然、指導医が入ってきて、「おまえら、何をしてる」と怒鳴られた。まずいと思ったが、現場を押さえられたので逃げも隠れもできない。ボクはとっさに、「患者さんがどんな感じになるのか、体験しようと思いまして」と言い訳をした。

 すると指導医は、「そうか。それはまあ、大事なことやな。実はオレも若いとき、試したことがあるんや。もちろん、患者の気持ちを理解するためやけどな」と、言わずもがなの弁解をし、「もうやめとけよ」と言っただけで、お咎めなしになった。

 このときは軽い酩酊ですぐにふつうにもどったが、小説家志望のボクとしては、この異常感覚は得がたい体験であるように思え、もう少し本格的に取材をしたいという衝動に駆られた。それで当直の夜、指導医には翌日に担当する心臓外科の麻酔の準備と称して、ひとり手術室に入り、笑気ガスを麻酔器につないで、ゴムマスクを口に当てた。100%で吸うと窒息するので、酸素と50%ずつに混合にし、取材用のノートを記録台に置いて吸入をはじめた。

 しばらくすると、頭の中にキィーンという音が響きはじめ、それが徐々に揺らぎだし、ジワンジワンというような音になって、唇が痺れてきた。聴覚が異様に研ぎ澄まされ、いろんな音がドップラー効果のように行き来する。自分の理性が確かなことを確認するため、ノートに1から10までの数字を書いてみたり、時計を見て時刻を記入したりして、同時に自分に起きている症状も手あたり次第記録した。

 やがて、手術室全体がグラグラ揺れはじめ、目の前の麻酔器のステンレスが、蛍光灯を反射して異様に輝き、手術室の扉が遠くに行ったり、急に近づいてきたりした。さらには、暗がりに白い紙人形のようなものが現れ、それがヒラヒラと踊るように見えた。暗がりになっていたのはボクが目を閉じていたからで、なかなか目が開けられず、苦労してまぶたを持ち上げると、床や天井がメリーゴーラウンドのようにまわって、ボクの身体も倒れかけの独楽のように揺れたが、気分は愉快で、なんとも幸福な気持ちになった。

 取材ノートにはそれを記録しようとするが、思い通りに文字が書けず、手に力も入らなくて、ボールペンを落としてしまったが、ボクはヘラヘラ笑っていた。すると突然、手術室の床が立ち上がってきて、ボクに襲いかかり横面を強打した。

 そこで暗転。床が立ち上がったのではなく、ボクが昏倒したのだった。

 ──

 どれくらい時間がたったのか(おそらく5分以内だったと思うが)。

「先生、大丈夫?」

 気づくと手術部の当直の看護師が、床に倒れているボクに声をかけていた。

「あ、明日の麻酔の準備をしてたんやけど、急に眠くなって、うたた寝してしもた」

 そう弁解したが、蛇腹につないだゴムマスクは垂れたままで、よく見れば笑気ガスの流量がゼロでないのはわかっただろうが、その看護師は、「当直室で寝たら」とだけ言って、部屋を出て行った。すべてお見通しだっただろうが、見逃してくれたようだ。

 こんなことを書くと、コイツ、絶対にもっとヤバいドラッグとかもやってるにちがいないと疑う人もいるだろうが、天地神明にかけて、覚醒剤や麻薬の類いにはいっさい手を出していないので誤解なきように。

 また、この体験は後年、『破裂』という小説で、主人公の麻酔科医が自室で吸入麻酔薬でラリる場面を書くときに使ったので、結果的に取材であることも事実になった。

 因みに『破裂』の執筆中、聖マリアンナ医科大学で、麻酔科の研修医3人が、麻酔薬の乱用で死亡したニュースが報じられ、他人事ではないと肝を冷やしはしたけれど。