[50]全身麻酔のあれこれ・2 絆創膏人形

 全身麻酔で事故が起こりやすいのは、導入時(麻酔のかけはじめ)と、覚醒時(麻酔を覚ますとき)で、手術が行われている間は、微調整は必要ながら、比較的安定していることが多い。それは飛行機の事故が、離陸と着陸のときに多いのに似ている。

 麻酔導入時の事故は、たいてい麻酔に対する想定外の反応が原因だ。全身麻酔を何度も受けている人は別として、はじめての人はどんな反応を示すかわからない。反射で心停止を来したり、心臓が止まらなくても危険な不整脈が起きたり、気管支けいれんで人工呼吸が困難になったり、体温が40度を超える悪性過高熱という状態になったりする。

 いずれもめったに起こらないが、研修医はありとあらゆる危険を教え込まれるので、気管内挿管を終えて、全身麻酔を開始し、バイタルサイン(血圧・脈拍・体温など)が安定するとほっとする。

 手術がはじまるときには、十分な麻酔深度に達していなければならないが、深度が深すぎると、命の危険が生じるので、瞳孔の大きさや、最初にメスを入れたときの血圧・脈拍の変動を見て、麻酔深度を調節する。

 無事に手術がスタートすると、あとは5分ごとに血圧と脈拍を測って記録し、適宜、筋弛緩剤や点滴を追加する。尿量が少なければ利尿剤を投与し、電解質が狂えば補正し、出血量が多ければ輸血をオーダーする。外まわりの看護師が手伝ってくれるので、麻酔科医はほぼ麻酔器の横に座っているだけとなる。

 はじめの3カ月はアンビューバッグを押しながら、手術の経過を見なければならないので、座っている余裕はない。しかし、4カ月目からは人工呼吸器の使用が解禁されるので、慣れも加わり、余裕が出てくる。指導医には、手術中は何が起こるかわからないし、麻酔事故は命に関わる危険性が高いから、常に手術経過とバイタルサインに意識を集中しておけと言われるが、実際にはほとんど何も起こらないので、指導医の“脅し”もやがて効力を失う。

 まじめな研修医は、手が空くと麻酔学の教科書を読んだりしていたが、ボクはボーッと考え事をしたり、小説の構想を練ったりしていた。

 そのうち、麻酔用のワゴンには、いろいろおもしろいものがあるのに気づいた。

 まずはガーゼを止める絆創膏。これは織りの細かい上等の布バンで、表面にかすかな光沢がある。それに記録用のマジックインキで黒と赤に塗ると、いずれもきれいに発色する。さらにディスポーザブルの注射器用の針が各種。中でもいちばん太い18ゲージ(パッケージがピンク色なので通称ピンク針)は、切っ先が3mmほどあって、メスの刃のように鋭い。それに手術用のハサミ。消毒用のアルコール綿は、ほぐすとアルコールが蒸発して、ただの綿になる。そして、結紮用の絹糸けんしも自由に手に入る。

 これだけ材料が揃うと、何か作りたくなるのが人情だ。ボクはまず絆創膏にヒダを作って、ピンク針で目と口の部分を切り抜き、それをマジックインキで黒と赤に塗り分けた絆創膏の上に貼り、ヒダの部分を鋏で三角に切って鼻にすると、小指の先ほどの人形の顔ができた。

 頭には黒く塗った絆創膏でメフィストフェレスのような帽子をかぶせ、腕と脚は絆創膏を巻いて作り、手足は絆創膏を貼り合わせたものをピンク針で切り抜く。肘と膝に手術用の絹糸をつけて絆創膏で巻くと、可動する関節になる。胴体もアルコール綿を芯にして作り、黒塗りの絆創膏でマントを作ると、手のひらサイズの悪魔の人形が完成した。

 胴体と手足にも絹糸を付け、マジックインキで黒く塗り、絆創膏を巻いて作った十字の棒に糸をつけると、操り人形になった。絆創膏には糊がついているので、巻くのも貼り合わせるのも自由自在だ。

 はじめは隠れて作っていたが、外まわりの看護師が気づき、評判になって、みんながほしがったので、指導医に内緒で、いくつか希望者にプレゼントした。

 人形作りはさらにエスカレートして、全身を黒マントで覆った死神や、「不思議の国のアリス」に出てくるトランプの兵隊、白で統一した雪の女王なども作ったが、シルクハットにタキシード姿の紳士を作り出したときに、凝りすぎて未完成のまま、人形作りもやめてしまった。

 幸い、ボクが担当した麻酔の患者さんは、いずれも問題なく終了したが、もしも麻酔事故が起きて、担当医が麻酔中に絆創膏で人形作りをしていたなどということがマスコミにバレたら、どんな騒ぎになっていただろう。バカバカしすぎて、教授や指導医も釈明のしようがなかったのではないか。