[39]今は昔のこぼれ話・1

 ボクが研修医だったのは40年以上も前なので、今ではなくなってしまったもの多い。いくつか思い出してみよう。

・アンプルカッター。

 これは砂を固めて作ったハート型の小さな器具で、薬のアンプルを切るときに使っていた。

 現在のアンプルは、くびれの部分にはじめから切れ目がつけられていて、丸印のところで簡単に折れるが、当時のアンプルには切れ目がなかった。

 だから、その切れ目をつけるため、ハート型のへこんだ箇所をくびれに当てて、ガリガリとこすった。それで一気に曲げるとポキッと折れるのだが、切れ目が浅いとなかなか折れず、力を入れすぎたり、切れ目が深すぎたりすると、アンプルが割れて、最悪、手に怪我をすることもあった。

 特に20mlの大きなアンプルは要注意で、ある研修医は指に深い傷を負って、指導医に縫合してもらっていた。

・エアー針。

 今の点滴はプラスチック製のソフトバッグで、点滴ルートの針は、口のゴム栓に刺すだけになっているが、ボクが研修医のころは、ほとんどの点滴がガラス瓶で、ルートの針を刺すだけでは陰圧になって滴下しないので、エアー針をゴム栓の横に刺さなければならなかった。

 この方法だと、液の滴下に従って、泡が点滴内に入っていく。空気中の埃などが液に溶ける危険性があるので、エアー針には微細なフィルターがついていた。ところが、このフィルターに点滴の液が逆流してついてしまうと、空気が通らなくなって、点滴が落ちなくなる。すると、針の先で血が固まって詰まるので、刺し直しになり、患者さんに痛い思いをさせることになった。

 それだけでなく、ガラス瓶は重いし落とすと割れるので(たまに手を滑らせて、廊下で点滴瓶を割る研修医もいた)、途中からプラスチックボトルが増えてきた。これもエアー針は必要だが、プラスチックなので、ボディに刺すことができ、空気が液内を通過しないのが利点だった。それでも、液面に外気が触れるので、まだ完璧ではなかった。

 たまにエアー針を刺し忘れると、途中で滴下しなくなり、針が詰まる。ある看護師は、巡回でエアー針のない点滴を見つけ、急いで刺してことなきを得たあと、ボクにしみじみとこう言った。

「わたしたち、何をやってるんだろと思ってましたけど、やっぱりわたしたちの仕事は意味があるんですね」

 勤務2年目の看護師で、大学病院での仕事に疑問を抱いていたようだ。

 エアー針が不要なソフトバッグは、40年前でも作ることはできただろうに、点滴は瓶という固定観念が邪魔をして、開発が遅れたのだろう。

・注射器での採血。

 採血は今は真空採血管を使うが、ボクが研修医のころはディスポーザルの注射器を使っていた。駆血帯もただのゴム管で、患者さんの腕に巻いたあと、先を折り曲げてはさんで留めていた(留め金のついた駆血帯も少しはあった)。

 注射器で採血を終えると、採血管に血液を移すときや、針にキャップをかぶせるときに、針刺し事故の危険があったが、真空採血管では、血管に針を刺したまま、採血管をホルダーに差し込んで採血し、すんだら針はキャップをせず、専用の針捨て容器に落とし込むので、針刺し事故の危険性がぐっと減った。

 しかし、血管を刺す手順は同じなので、採血がしやすくなったわけではないだろう。

・剃毛。

 手術をする部位は、皮膚の感染を防ぐため、手術前に産毛、腋毛、陰毛などを、カミソリで徹底的に剃るのがふつうだった。今は細かな傷がかえって感染を起こしやすいとの理由で、カミソリは勧められないらしい。

 ボクが研修医だったとき、看護師から男性患者さんの陰毛は、研修医が剃ってほしいという要望が出た。それはもっともだということになり、看護師長の鶴の一声で、指導医たちも受け入れた。

ボクも剃らされたが、使うのは長い柄のついた理髪師用のカミソリで、扱いに苦労した。問題は陰嚢の表面で、セッケンをつけて剃ろうとすると、陰嚢の皮膚は不随意に動き、しかも毛根は鳥肌のようにブツブツになっているので、滑らかに剃れない。それでも毛を残したらいけないと思うので、悪戦苦闘して剃るうちに、あちこち切ってしまい、陰嚢が血だらけになった。

 ボクだけでなく、何人かの研修が同じ失態を演じたので、ふたたび看護師長の鶴の一声で、また看護師が剃るようになった。看護師たちの卓抜な技術に感服したが、陰嚢を血だらけにした患者さんには、誠に申し訳なかった。