[05]独り立ち間近

  オーベンのK先生についた1カ月余りは、文字通り多忙な日々だった。

 研修がはじまって2週目の土曜日に、オーベンと若手の指導医がネーベン歓迎の野球大会を開いてくれた。久しぶりの息抜きで、楽しみにしていたら、その日の昼前、腸閉塞の患者さんが緊急入院して、K先生が受持ちになった。午後から手術をするというので、これは野球に行けないなと思っていると、「君は野球に行っていいで」と、K先生が言ってくれた。ボクがあまりにがっかりした顔をしていたので、やる気のなさを見抜いたのだろう。ではお言葉に甘えてとグラウンドに向かったが、熱心な研修医なら当然、手術に立ち会って勉強するところだ。

 日々の研修でも、ボク以外の研修医は遅くまで病棟に残って、オーベンや指導医からいろいろ学んでいた。ボクは特別な用事がないかぎり、定時になると帰っていた。何しろ新婚なのだから、地に足が着いていない。K先生にも「君は脱兎のごとく帰るなぁ」とあきれられていた。

 この1カ月余りは、K先生の患者をいっしょに受け持ったが、印象に残っているのは、81歳の直腸がんの患者Fさんだ。手術はがんの切除と人工肛門の造設で、高齢なので麻酔のあとは錯乱するかもしれないと言われていた。手術直後はよかったが、少しすると高熱を出して興奮した。K先生はじっとようすを診て、「これは感染やな」と言い、手術の傷ではなく、肛門のほうを調べた。赤黒く腫れた肛門をメスで切開すると、大量の膿が出た。K先生はそのにおいだけで、「嫌気性菌や」と言い当て、適切な抗生剤を選んで、Fさんを回復させた。

 手術後の発熱は、手術したところが原因だと考えがちだが、別の部位も忘れてはいけないと学んだ一件だった。

 もう1人、Yさんという総胆管がんの患者さんもいた。この人は第三内科の指導医Y先生の父親で、主治医は息子のY先生が務めていた。手術をするということで、第二外科に紹介され、K先生が受持ちになった。

「これはたいへんな手術になるぞ」と、K先生は深刻な顔で言い、ボクを大学の図書館に連れて行った。関連の文献を調べるためで、そこまで熱心にするオーベンは、K先生だけだったと思う。

 総胆管がんの手術は、根治を目指す場合、総胆管、胆のう、十二指腸、胃の下1/3、さらにがんの広がり具合によっては、すい臓や肝臓の一部も切除する大がかりなものになる。当然、術後管理はたいへんで、何日も病院に泊り込まなければならない。

「この患者は君が中心になって診てくれ」とK先生に言われ、ボクは憂うつになった。

 ふつう、大きな手術の患者を受け持てば、それだけ学ぶことも多いので、熱心な研修医は喜ぶところだが、ボクは小説と新婚生活に気持ちが向いていて、病院の仕事で時間を取られるのがイヤだった。

 前後するが、この前の年、国家試験の勉強中にも拘わらず、ボクはそれまで書き溜めた短編を小さな本にして自費出版していた。今年も出そうと思っていたが、さすがに国家試験の直前は書けなかったし、国家試験のあとは結婚式と新婚旅行が控えていたので書けず、研修医になったら書こうと秘かに心づもりをしていたのだ。だから、できるだけ自分の時間がほしかった。

 もちろん、そんなことはだれにも言えない。Yさんの手術の準備をはじめたが、息子兼主治医のY先生があれこれ細かい注文を出し、さらに余病を診るため第二内科、脳外科、眼科も関わってきて、カルテをまとめるだけでもたいへんだった。

 どうなることかと思っていたら、Yさんの容態は急速に悪化して、手術どころではなくなり、10日ほどで亡くなった。ボクが当直のアルバイトに行っていた夜で、病棟から電話がかかってきて、午前3時半ごろタクシーで駆けつけると、すでに亡くなっていた(亡くなったのは第三内科の病棟で)。

 大学病院で亡くなると、解剖するのが通例だが、Y先生は受け入れず、解剖は行われなかった。K先生は「わがままやな。どれだけ大学に世話になってると思ってるんや」と、怒っていた。

 Yさんは息子が阪大病院の医シャで、主治医のY先生は優秀な指導医で、しかも父親思いだったから、考え得る最高の医療を受けたはずだ。それでも死ぬ人は死ぬんだなと、認識を新たにした一件だった。

 6月も下旬になると、我々新研修医も日常業務はこなせるようになり、K先生を含め、オーベンたちは病棟に顔を出さなくなった。いよいよ独り立ちが近づいてきたのだ。

 オーベンたちは自主休暇で、中には海外旅行に出かけた人もいた。それで、ボクも1年頑張ったら、ご褒美に長期休暇が取れると思い、俄然、元気が出てきた。

 しかし、これが後日、大失態につながるとは、このときは夢にも思わなかった。

(2021.10.18更新)