[15]指導医のいじめ

 7月のある土曜日、開業医をしている父の従兄が、ボクの研修医デビューを祝って、食事会を開いてくれることになった。場所は難波にある土佐料理の店。両親と妻も招いてくれ、父の従兄も夫妻で来る予定だった。

 楽しみにしていたが、ボクは初日の遅刻も相まって、指導医の間で早くもダメ研修医のレッテルを貼られかけていた。ヤル気がなく、しょっちゅう息抜きをして、定時になるとだれよりも早く帰宅する。重症患者をいやがり、良性の患者で喜んでいる。アイツは何を考えているのかわからんと思われていたようだ。

 当時は土曜日も午前中に勤務があり、受け持ち患者の処置をして、いったん家に帰ろうとした。ところが、Sさんという肝臓がんの患者さんが熱を出した。Sさんは手術の前に、「エンボリゼーション」という治療(がんに栄養を送る動脈を詰めて、がんを縮小させる新しい治療)を受けていたので、それが原因で胆のう炎を併発したのだ。

 指導医に報告すると、さらに上のO講師からこう言われた。

「胆のう炎が悪化したら緊急手術になるから、しっかり経過を見とけよ」

 どう見るのかと聞くと、2時間ごとにSさんの腹部を押さえて、痛みの範囲が広がっていないかどうかを調べるというのだ。

 抗生物質の点滴をして、それで熱が下がれば、炎症は治まったことになる。しかし、簡単に熱は下がらず、食事会の時間が迫っても痛みの範囲も変わらなかった。2時間ごとなら、病院を抜け出して、食事会に参加できるかとも思ったが、万一、いない間に急変したら大変なことになる。そう思って店に電話を入れ、泣く泣く食事会はボク抜きでやってもらうことにした。

 夜はどうするのかと聞くと、「もちろん、2時間ごとに経過観察をしろ」と言われた。だから、ボクは夜中も2時間ごとに起きて、Sさんのお腹を押さえて、痛みの範囲が広がっていないことを確認した。

 翌日曜日も同様に観察を続けた。すると、午後2時ごろ、痛みの範囲が少し広がったように思えた。これは緊急手術になるかもしれない。変化があればいつでも連絡しろと言われていたので、ボクはすぐさまO講師の自宅に電話をかけた。緊迫した声で状況を伝えると、予想外にO講師の反応は鈍かった。

「ほんまに広がってるのか」

「はい」

「本人はどう言うてるんや」

2時間前より痛みが強くなったと言ってます」

「うーん。取りあえず当直の先生に診てもらえ」

 いつでも連絡しろと言っていたのに、明らかに迷惑そうで、病院に駆けつける気などさらさらない感じだった。

 仕方がないので、当直の指導医であるF先生に頼んで、Sさんの腹部を診察してもらった。

「これやったら、ようすを見てたらいいよ」

2時間ごとでいいですか」

 F先生は眉をひそめ、「君はずっと2時間ごとに観察してたのか。夜中も?」と、あきれたように言った。

「そんなことする必要はまったくない。昨晩はほとんど寝てないんだな。かわいそうに。この患者さんは僕が診ておくから、君はもう帰っていいよ」

 優しい言葉に、地獄で仏とはこのことだった。

 F先生によると、これくらの胆のう炎で緊急手術になることはまずなく、抗生物質の点滴で十分とのことだった。ボクはO講師に目をつけられていたので、ことさら不要な観察を言いつけられたのだろう。別の指導医からも、「君のカルテからは、何も伝わってこない」と苦言を呈されたことがある。もともと伝えることもないし、その気もないので、「はあ」と、気の抜けたような返事をすると、いかにもダメ研修医を見るような目で見られた。だから、こんないじめのような指示を与えられたのだ。

 前夜、食事会をキャンセルしたことをF先生に言うと、「それはもったいない。僕に相談してくれたら、すぐ行かせてあげたのに」と、同情してくれた。F先生こそ研修医の味方と思ったが、実はこれには深いわけがあるのだった(「F先生のこと」につづく)。

[14]はじめのころの患者さん

 大学病院にはむずかしい病気の患者さんが多く、第二外科はがんの患者さんがほとんどだった。ところがどういうわけか、ボクは良性の患者さんが2人続いた。

 1人は乳腺の嚢胞のうほうで、Tさんという30歳の女性だった。乳腺内にできた袋に液が溜まる病気で、中に良性の腫瘍もできていた。大きさはソフトボールくらいで、もっと早く受診していれば傷も小さくすんだのに、不安と恥ずかしさで、ずっと隠していたらしい。母親が見つけて、慌てて地元の病院へ行くと、すぐ大学病院へ行けと言われた。

「てっきりがんだと思って、心配で心配で」と、母親は良性と聞いたあとも不安がっていた。

 手術は嚢胞を切除するだけで、乳房は温存して、1時間余りで終わった。診断書に、指導医に言われた通り「巨大乳腺嚢胞」と書くと、あとで母親が困惑したようすでボクを呼び出した。

「すみません。診断書は会社に出すんですけど、田舎(兵庫県の山間部)なので、この病名が噂になったら困るんです。すみませんが、『巨大』というのを取ってもらえませんやろか」

 ボクは了解して、診断書を書き直した。通常、1cm前後で見つかる嚢胞が、ソフトボール大だったので、指導医は「巨大」とつけたのだろうが、患者さんにすればショックな言葉だったようだ。患者さんと医シャでは、言葉の印象がまるで異なると知った一件だった。

 もう1人は、正中けい嚢胞という顎の下にできる腫瘤で、Nくんという9歳の男の子だった。黒目のクリクリした明るい少年で、ボクとはすぐ仲良くなり、病室でしりとりをしたり、いっしょに屋上で遊んだりした。退院のときにはメモ用紙の手紙をくれ、それは今も残してある。

 Nくんの手術も嚢胞を取るだけなので、簡単に終わった。がんだと周囲のリンパ腺の郭清かくせい(まとめて取り除くこと)や、切除範囲の決定なども必要なので、手間はかかるが、勉強になる。だから熱心な研修医は、がん患者の受け持ちを喜ぶが、ボクは良性の病気がありがたかった。手術も検査も簡単だし、なにより死を意識しない分、気が楽だからだ。

 しかし、そうも言っておれず、ボクにもがんの患者さんが割り当てられた。Nくんの次に受け持ったのは、Iさんという甲状腺がんの患者さんで、先に受け持ったMさんほど美人ではないが、目の感じがMさんにそっくりだった。偶然かなと思ったが、バセドウ病(甲状腺機能亢進症)では“眼球突出”という徴候もある。もしかしたら甲状腺がんも目に関連があるのかもしれないと思っていたら、別の研修医の受け持ちで、同じような目の患者さんがいたので、病名を聞いたらやっぱり甲状腺がんだった。

 指導医に話すと、アホかという顔で否定されたが、外見に徴候が現れる病気は、実は少なくない。たとえば“バチ状指”(太鼓のバチのように先が膨れる)は、肺気腫や慢性気管支炎の徴候だし、“スプーン爪”(スプーンのように反った爪)は鉄欠乏性貧血を示唆する。肝硬変では手の平が赤くなる“手掌紅斑しゅしょうこうはん”や、小さいクモのように見える“クモ状血管腫”が現れ、男性の場合は“女性化乳房”といって胸が膨れたりする。高コレステロール血症ではまぶたに“黄色腫おうしょくしゅ”という扁平な隆起ができるし、膠原病こうげんびょうのSLEや、ヘルペス感染症の突発性発疹ほっしんでは、顔に赤いチョウチョが貼りついたような“蝶形ちょうけい紅斑”が出る。先天性梅毒(母親の胎内で感染した梅毒)では、“ハッチンソン歯”と言って、歯の下縁が半月状に凹む徴候があるし、唇に黒い色素沈着が起こるポイツ・イェーガー症候群(胃腸に多数のポリープができる)などもある。

 これらはすべて学生時代に習ったが、現場で活用されることは少ない。徴候に目を光らすより、血液検査やCTスキャンなどの画像診断のほうが、よっぽど早く正確に診断できるからだ。

 すべての徴候は、だれか診える医シャ・・・・・・が見つけたものだ。甲状腺機能亢進症だって、それまでも多くの医シャが診察していたはずだが、眼球突出と結びつけたのはカール・アドルフ・ファン・バセドウだけだった。バセドウ先生が偉かったのは、甲状腺ホルモンが計れるようになる以前にこの徴候を発見したことだ。なぜ、わかったのか。それはバセドウ先生が診える眼・・・・の持ち主だったからだ。

 かつて検査が未発達だったころ、医シャはきっと患者の徴候に目を凝らしていたのだろう。今はなまじ便利な検査があるため、医シャが患者をあまり診なくなった。

 このことは、ずっと頭に引っかかっていて、その後もボクは患者さんの外見を注意して見た。もちろん、それで病気が見抜けるようにはならなかったが、後年、『無痛』という小説で、外見の徴候からすべての病気を診断できる名医・為頼英介を構想するのには役立った。

[13]患者さんのお礼

 今では御法度だが、当時は患者さんから現金のお礼はふつうにあった。オーベンのK先生からも、お礼のもらい方を指導された。

「お礼は手術の前には受け取らんほうがええぞ。結果が悪かったとき、気まずい思いをするやろ」

 ということは、手術のあとでもらえばいいということだ。しかし、手術の前に「よろしくお願いします」と、熨斗袋を差し出す患者さんも少なくない。そんなとき、「受け取れません」と言うと、ずっと受け取らないのかと誤解される。だから、前に「今は」とつける。微妙なアクセントで「今は・・、受け取れません」と言うと、相手もその含みを呑み込んでくれる。

 K先生によれば、出されたお礼を手で受け取るのも、あまり好ましくないとのことだった。相手が白衣のポケットに入れてくれるのが、いちばんありがたいというのだ。ボクも手で受け取らないようにしたら、ある患者さんの奥さんが、「どうぞ」と繰り返すばかりで、お互い動きが取れなくなった。それで、つい右手で自分のポケットを触ってしまった。奥さんははっと気づいて、熨斗袋をポケットに押し込んだが、我ながらさもしくて、次からは手で受け取るようにした。

 お礼の額は、だいたい1万円から3万円。手術を執刀する指導医には、もっと高額が渡されていたと思う。

 研修医なのに10万円のお礼をもらった者もいた。彼は丈の短いケーシースタイルではなく、裾の長い白衣を着流すように羽織っていた。ボタンも止めず、病棟の廊下をゆっくり歩き、しゃべり方もどことなく偉そうだった。

 お礼を手渡すとき、患者さんは彼にこう言ったという。

「ほかの患者さんは、みんな新人みたいな先生なのに、わたしだけベテランの先生に診ていただいて、感謝しています」

 彼は指導医にまちがわれたのだった。医シャもハッタリが大事と気づいた一件だった。

 患者さんのお礼は、もちろん全員からあるわけではない。はじめのころ、続いてお礼をもらったので、次の患者さんが退院するとき、土曜日だったが、用もないのにボクは研修医ルームに残っていた。そろそろかなと思って詰所に行くと、看護師に、「あの方、もう退院されましたよ」と言われた。ニヤリと笑った看護師の顔には、(お礼を期待してたんでしょうけど、残念でした)と書いてあった。

 患者さんのお礼が問題視されたのは、お礼を渡したくても、経済的な理由で渡せない人が、冷遇されるのではないかという危惧からだろう。だが、医シャの側から言わせれば、お礼の有無で医療の内容を変えることなどまずあり得ない。治療法はガイドラインでほぼ決まっているし、仮にお礼がないからといって、手抜き医療で容態が悪化すれば、苦労するのは自分だから、到底、割に合わない。お礼をもらったから、特別にいい薬を使うなどということもあり得ない。せいぜい病室で愛想のいい顔が増えるくらいだ。

 しかし、世間の疑心暗鬼には侮れないものがあるようだ。

 後年、ボクは外務省の医務官という仕事で海外の日本大使館に勤務したが、ある書記官にこう言われた。

「うちは両親ともがんになったのですが、母親は主治医にお礼をしなかったから亡くなりましたが、父親はお礼をしたので助かりました」

 インテリと目される外務省の書記官にしてこうなのだから、お礼が横行していたときには、不安を抱えていた人も多かっただろう。

 そういう状況を改善するためにも、お礼を廃するのはいいことだ。しかし、それなら医シャの報酬を増やさなければならない。それまでの医シャは、お礼も収入の一部と考えて激務をこなしていたのだから。激務の量は変わらないのにお礼を廃すると、実質的な賃下げになる。

 そもそも、お礼は気持ちの表れだろう。言葉だけでなく、何らかの形で示したいという人もいるはずだ。懸命な努力で病気を治してもらったり、親身に治療してもらったりすれば、何かお返しをしたくなるのが人情だ。そういう思いまで一律に制限するのは、何か世知辛い気がしないでもない。