[46]ネーベンが来る

 5月の後半、1年下の研修医たちがやってきて、ダメ研修医のボクもオーベンになった。

 新研修医との顔合わせは、病院の講義室で行われた。生意気そうなのとか、強面とか、調子のいいのだけが取り柄みたいのがいて、担当する相手によっては扱いに苦労しそうなのが多かった。

 その中でボクに割り当てられたのは、たまたま医学部のサッカー部の後輩で、高校の後輩でもあるN君だった。ダブル後輩の上に、人一倍素直で明るい性格なので、これほど扱いやすいネーベンはないと、ボクは密かにその幸運を喜んだ(N君にとっては、不運だったろうが)。

 糸結びを教え、採血の方法を教え、消毒の仕方、清潔と不潔の峻別、ガーゼ交換のやり方、手術前の手洗いなど、一通り説明すると、早くも教えることがなくなった。

 それで1年前にボクのオーベンだったK先生に教えてもらったときのメモ帳を取り出して、それを見ながら指導することにした。久しぶりに見たメモには、さまざまな症状に対する薬から、当直のときの緊急対応、傷の縫合の仕方、日曜日に検査部が閉まっているときに、自分で顕微鏡を使って赤血球や白血球を数える方法まで書いてあり、ボクがこの1年間でほとんど習得しなかった技術や知識が満載で、改めてK先生の偉大さに感心させられた。

 それらの知識は、ボクが十分に習得していない以上、N君に伝えることもできず、不運な彼はボクがK先生から教わった1/3ほどの内容しか会得できなかったと思う。それでも彼は不満をもらすことなく、笑顔でボクの指導についてきてくれた。

 N君については、学生時代にひとつ奇妙な記憶があった。サッカー部の練習を終えて帰るとき、たまたま2人で橋の上に差しかかると、すばらしい夕焼けの空が広がっていた。それを見て、彼が不思議そうにこう言ったのだ。

「みんな夕焼けを見たら、きれいとか言うでしょう。ボクは1回もきれいと思ったことがないんです」

 西の空一面にオレンジ色のスクリーンが広がり、夕陽は目も眩む光を投げかけ、たなびく雲をコバルト色に照らしていた。その雄大さ、華やかさは、自然の豪奢な絵巻さながらで、見る者の心を奪わずにはおかなかった。なのに、彼はこれをきれいと思わないと言う。性格のいいN君は、ふだんでも笑顔なのだが、このときは少し戸惑った表情をしていたが、ボクもどう応じたらいいのかわからなかった。

 ネーベンが来て2週間ほどたつと、各オーベンもそろそろネーベンに自立を促すようになる。採血当番やガーゼ交換などをネーベンにさせ、新しい入院があると、ネーベンに診察させてカルテも書かせる。オーベンは横で見ているだけになり、その時期がすむと、次第にオーベンは病棟に顔を見せなくなった。適宜、自主休暇を取りはじめたのだ。

 だけど、ボクはずっとN君について指導を続けた。ダメなオーベンで申し訳ないと思ったからではない。1年前のオーベンを思い出して、密かにある計画を練っていたのだ。それは海外旅行。ボクたちの上のオーベンは、この時期、2人が海外旅行に行っていた。だから、ボクもそれを楽しみに、この1年をすごしてきたのだ。

 海外旅行に行くと、当然、ネーベンは困ったことがあっても連絡がつかない。だから、ボクがいなくても問題がないように、N君につききりで指導し、独り立ちを確実なものにしようと目論んだわけだ。

 受け持つ患者さんによっては、N君に任せられない場合もある。ボクは新入院に大物が入ってこないことを祈りながら、着々と旅行の準備を進めた。そのとき受け持っていたのは、乳がんや直腸がんの患者さんで、これはネーベンでも対応できるものだった。

 ところが、6月になってKさんという肝臓がんの患者さんが入院してきた。肝臓がんは手術が大がかりで、術後管理もむずかしい。手術の予定が伸びると、術後管理が旅行の予定と重なり、キャンセルせざるを得なくなる。

 困ったなと思っていると、うまい具合に手術予定が早まり、旅行の1週間前にKさんは手術を受けることになった。手術のあとの1週間を無事にすごせば、あとは経過観察だけでいい。

 この時点でボクはN君に、「実は来週から海外旅行に行くから、よろしくね」と伝えた。強面のネーベンなら、「冗談じゃないですよ」と怒るところがだ、そこはクラブと高校のダブル後輩で、抜群に素直な性格のN君なので、「えっ」と驚きはしたが、困ったような笑顔で「わかりました」と、納得してくれた。

 問題の手術の日、N君は緊張して手術助手を務め、ボクは横に付ききりでN君をサポートした。手術当日はN君といっしょに病院に泊まり込み、術後管理に努めた。

 幸い、Kさんの経過は順調で、術後出血も感染もなく、このままだと、ボクが旅行に行っている間に退院できそうな雰囲気だった。ボクはN君に退院までにすべきことを書いたメモを渡し、「あとは頼む」と言い残して、病棟をあとにした。

 帰りのエレベーターホールで、研修医担当の指導医O先生に出会い、「君はまだ病棟に来てくれてるのか」と感心するように言われたので、「明日からヨーロッパ旅行に行くんです」と言うと、「ええなぁ」と受け流してくれた。

 これで心置きなく休暇に出かけられるはずだったのだが・・・・・・。