[53]緊急止血手術

 麻酔科の研修で忘れることができないのは、当直の夜、特殊救急部で見た光景だ。

 緊急手術があるというので手術部で用意をしていると、患者さんは重症で、手術部に上げる前に特殊救急部で開腹したと連絡が来た。46歳の男性で、仕事中にプレス機にはさまれて、腹腔内出血で運ばれてきたらしい。

 ようすを見に行ったときのメモが残っているので、多少捕捉してほぼそのまま採録してみる。

『部屋(特殊救急部)に入ると、いつも見慣れた手術とはまったくちがう光景に出くわした。患者はすでに開腹され、小腸、大腸、大網は腹腔外に露出しているのに、患者に覆布もかかっていなければ、消毒した跡もない。術者も緑色の手術着を着ずに、手袋とビニールエプロンだけでマスクもしていない。床を見ると、一面に血がこぼれており、周辺には血に汚れたスリッパの跡がいくつもついていた。三人の術者の足は真っ赤に染まり、白衣のズボンには吹き付けたような血痕がついている。看護婦に聞くと、下大静脈が破れて後腹膜で大出血を起こしているということだった。

 患者は手術台に移される間もなく、輸送用のストレッチャーの上で、即、開腹となった。経口挿管され、人工呼吸器が作動している。心電図の甲高い音が、早鐘のごとく鳴っている。両鎖骨下と左大腿静脈に三本の点滴ルートが確保され、研修医と看護婦が三方活栓を操作して、五十ccの注射器でパックから血を吸っては輸血している。支柱には空になった輸血パックが鈴なりに吊してある。術者は腕まで腹の中に入れて、懸命の止血をしている。出血点がはっきりせず、しかも複数であるらしい。次から次へと鉗子をつっこみ、パチリパチリと止めていく。組織を剥離し、切り裂いて、一刻も早く出血点に到達しようとしている。その素早さ、荒っぽさは予定手術では考えられないほどのものだ。術者は怒鳴る。若い看護婦は血の気の失せた顔で右往左往している。誰かがコードを引っかけて、術野を照らすライトを切ってしまった。術者は「何してくれんねん」と怒鳴りながらも操作の手を緩めない。「早よつけんか! 鉗子、リスター、クーパー!」次々と器械を要求する。「吸引、吸引せんか!」若い看護婦が怒鳴られる。「マーゲン(胃)!」と言って、術者は切断した胃を後ろも見ずに投げた。胃はベチャッと床に落ちて溜まった血をはねた。しかし、だれもそんなことには目もくれない。

「いったいどこやねん。吸引、吸引してくれよ」「先生。ヘルツ(心臓)がおかしいです」「何ぃ。そらあかんがな」

 それまで早打ちしていた心電図の音が、急に乱れてピピピピピという持続音に変わった。「しっかりブルート(血)押さんかい」「メス!」術者は腹から手を抜くと、一刀のもとに左の胸を切り開いた。あまりに切れ味のよいためか、それとも出血しすぎて血がないのか、切り口には黄色い脂肪が見えるだけで、一滴も血は出なかった。「開胸器!」銀色の開胸器がかけられ、サッサッと胸膜、心嚢を切り裂くと、細かく震える心臓が現れた。「しっかりもめ!」開胸式の心臓マッサージをほどこす。「ちゃんと届いてるんか」「いえ……」「どけ、もう」術者は慌ただしく交替し、一心不乱のマッサージがはじまる。「ボスミン(強心剤)!」「もっと細い針に替えて、ブルー針に決まってるやろ」「あかん、腹から出とんねや。吸引せえ。もっとブルート押さんかい」「カウンターショックや。取ってこい」看護婦が鉄砲弾のように飛び出す。「ここにあるやないか。準備せえ」電気除細動器がセットされる。二つの端子で心臓をはさむように胸にあてがう。「行くで。行きまっせ。それ!」ガタンと音がして、患者の体全体がストレッチャーの上で跳ねる。「どや」「動かんかい」「ボスミンや。ボスミンをもう一本吸うてくれ」「これ何本や」「三本です」「カテラン針にせえ」瞬時を惜しんでの心臓マッサージが続く。

「ブルートありません」「何ぃ、頼んだあんのか」「十パック言うてます」「足るか。誰のでもええ。A型の血、みな持ってこい」「あ、日赤の車来ました」看護婦が取りに走る。自動扉が開いて、日赤の職員が血液パックを入れた籠を持って立っているところへ看護婦が走ってきて、もどろうとすると、日赤の職員は「あの、一応サインしてもらわんと」とボードにはさんだ書類を見せた。

 術場では再三カウンターショックが用いられている。その度に患者の身体はガクンと飛び上がる。ショックをかけては心臓の動きを見る。心臓はしばらく弱々しく拍動し、また細かく震えだす。「もう一回、ボスミンや」「もっと元気よう動かんかい。しっかり打たんかい」「ここまでやったんや。ヘルツでへばるやなんて殺生な。頼むわ。動いたってぇな」「先生、そけい部、腫れてきました」「うん。下にももれてるからやろ……。しっかり入れてんのか」「入れてますけど」「何ぼ入れてもアカンわ。後腹膜にもれて、ヘルツまで返ってこんわ」「外来で腹開くの、久しぶりやな……

 術者は心臓マッサージの手を離した。細かく震える心臓を見ている。「もう一回だけショックやるか」ガクンと患者の身体が跳ねて、腕がだらりと台から垂れた。「何ぼ入れても返ってこん。ブルートもうええわ」

 術者の手の動きが急に緩慢になった。人工呼吸器だけが空しく肺を膨らませている。

「血の海言うけど、こりゃ血の山やな」床の上で凝血した血の塊が積み重なって盛り上がっていた。』

 この患者さんは、結局、両側の腎静脈断裂と左腎動脈断裂、膵頭部断裂で、大出血を起こしたのだった。ドラマや映画では、凄絶な救命処置で患者さんが奇跡的に救命されるのだろうが、現実ではそういうことは起こらない。

 メモの最後にはこうある。

『患者の蒼白な顔は、浴びた自らの血しぶきを除けば、やすらかな寝顔だった』