[51]全身麻酔のあれこれ・3 麻酔の終了

 手術が終わりに近づくと、麻酔を醒ます準備にかからなければならない。いわゆる“覚醒”の段階で、意識も痛覚も呼吸もない患者さんを、ふつうの状態に呼びもどすのである。その目安は“抜管”、すなわち気管チューブを抜くことで、これがある意味、麻酔科医の腕の見せ所になる。

 というのは、手術が終わっているのに麻酔が醒めないと、患者さんを手術室から運び出せず、外科医も病棟にもどれないし、手術室の看護師たちも後片付けにかかれないので、覚醒に時間がかかるとみんながイライラしながら待つことになるからだ。

 反対に、手術終了から間を置かずに抜管すると、「おぬし、デキるな」と、外科医や看護師たちから賞讃の眼差しを送られる。

 そもそも、全身麻酔の患者さんは、麻酔剤を止めればすぐに覚醒するというわけにはいかない。しばらくは意識がもうろうとして、自分で呼吸することさえ覚束ない。手術中は筋弛緩剤で呼吸を止めているので、手術が終わってもその効果が残っていると、患者さんは呼吸ができないことになる。

 当時使っていたミオブロックという筋弛緩剤は、30分くらいで効力が弱まるので、手術中は適宜、追加投与しなければならなかった。追加のタイミングが遅れると、自発呼吸が出て、人工呼吸器の送気とぶつかり、しゃっくりのような“バッキング”という現象が起きる。患者の身体がビクッと動くので、手術操作によっては大出血や重要臓器の損傷につながる危険があり、執刀医から「バッキング!」と、怒鳴られる。

 それを恐れて過剰に筋弛緩剤を投与すると、手術が終わってもなかなか自発呼吸が出ず、関係者を待たせることになって、全員から冷たい視線を浴びる。

 だから、手術終了の30分前以降はミオブロックの投与は厳禁なのだが、はじめから30分間隔で投与して、ちょうどになる保証はなく、さらに執刀医によっては予定より早く終わる場合もあれば、逆に鈍くさくてなかなか終わらないこともある。

 困るのは、30分後の終了を見越して最後のミオブロックを投与したのに、予測に反して手術が終わらず、バッキングが出そうになるときだ。ここでミオブロックを追加すれば、あと30分は自発呼吸が出ない。かと言って、このままだといつバッキングが出て、手術に危険が及ぶかもしれない。

 そんなときにはテクニックがあって、人工呼吸器から手動のアンビューバッグに切り替え、思いきり空気を吸わせてから、一気に吐き出させるようにする。いわば深呼吸の繰り返しで、過呼吸の状態にすることによって、呼吸中枢を抑え、横隔膜を弛緩させて、しゃっくりが出ないようにさせるのである。

 しかし、それにも限度があり、アンビューバッグに患者さんの自発呼吸が強く感じられるようになると、致し方なくミオブロックを追加せざるを得ない。手術をスムーズに終えられない鈍くさい執刀医が悪い、と思うのは未熟者で、執刀医の腕を見越して筋弛緩剤の投与を調整できなかった自分が悪いと考えるのが、一人前の麻酔科医である。

 筋弛緩剤は効力が長引くことがあるので、リバースと言って、拮抗薬を投与する。それを忘れると、いったん自発呼吸を確認しても、病棟でふたたび無呼吸になって患者さんが永遠の眠りについてしまう。

 抜管のゴーサインは、意識と自発呼吸の確認である。麻酔剤をストップしてもすぐには意識がもどらないので、手術が終了に近づくと、あらかじめ徐々に麻酔を浅くしていく。筋弛緩剤のリバースも、手術が終了してから行うのではなく、手術創の縫合がはじまった時点くらいでフライング気味に拮抗薬を投与する。患者さんの状態によっては、吸入麻酔剤も早めに切って、酸素と笑気だけで覚醒スレスレの状態で維持することもある。それがうまくいけば、手術終了とほぼ同時に抜管できて、「ナイスタイミング!」と、周囲からお褒めの言葉をいただく。

 意識の有無は、患者さんの名前を呼んで、うなずいてくれるかどうかを確かめる。「目を開けてください」と言って、開眼すれば、意識及びまぶたの筋力がもどっていることが確認される。さらに念のため、「手を握ってください」と言って自分の手を握らせて、筋力の回復程度を確認し、それから抜管ということになる。

 高齢者の場合はなかなか意識がもどらないこともあり、名前を呼んだあと、頬を叩いて覚醒を促すこともある。ボクはたまたま自分が住んでいる堺市のG市長の麻酔を担当し、高齢の市長がなかなか目を覚まさないので、名前を呼びながら何度も頬を叩いた。堺市民で現役の市長にビンタを食らわすのは、ボクだけだろうなと思いながら。