[07]最初の手術・前編

 ボクが研修医になってはじめてついた手術は、Mさんという40代の甲状腺がんの患者さんだった。もちろんボクが執刀するわけではなく、第一助手としての参加である。

 執刀するのは甲状腺疾患が専門のT先生だった。医局内では3人の講師に継ぐベテランで、上品な物腰で声を荒げることはないが、神経質で内面はいつもピリピリしていた。だから、怒ると怖いという印象だった。

 手術室に患者さんが運び込まれると、研修医は麻酔科医に「よろしくお願いします」と頭を下げて、手洗いに行く。手洗いと言ってもトイレではなく、消毒室で手を滅菌状態にするのである。

 消毒室には手洗い用のカランが並んでいるが、ハンドルはついていない。足元にレバーがあって、膝で水の出し止めをする。手を消毒し終えたら、滅菌されていない場所にはいっさい触れられないからだ。

 手順は、まずステンレス製の滅菌カストに入っている帽子を滅菌鉗子で取り出してかぶり、手を水で洗ったあと、ヒビテンというピンク色の消毒液を滅菌タワシにつけ、前腕からゴシゴシこすりはじめる。タワシは往復ではなく一方向きにこする(除いた雑菌をもどさないため)。黒い剛毛でけっこう痛い。手の平と甲もタワシをミリ単位の移動でこすり、最後に指を1本ずつ丹念に洗う。指の背、腹、側面を意識しながらそれぞれ30回ずつくらいこする。どうせ滅菌手袋をはめるのだから、そんなに必死にならなくてもと思うが、万一、手術中に手袋が破れたときのために、素手も滅菌状態にするのである。

 指先は爪の間もきれいにする。爪はギリギリまで切っておかねばならず、少しでも白い部分が残っていたら、「外科医にあるまじきこと」などと怒られる。

ボクは新婚だったから、左の薬指に結婚指輪はめていたが、手術のときはもちろん取る。「面倒臭いやろ」と半ば揶揄されたので、改めて見ると、第二外科の指導医で結婚指輪をしている人はいなかった。しかし、第一外科の指導医には、けっこう指輪組がいた。指導医に理由を聞くとこう言われた。

「心臓外科の連中は忙しくて、家に帰れん日が多いから、離婚率が高いんや。それをつなぎ止めるために、せめて指輪で嫁はんに忠誠心を見せてるのや」

 心臓外科医はエリートの集団だったが、涙ぐましい努力があったようだ。

 手洗いが終わると、手術ガウンを着る。滅菌カストに入っているガウンを滅菌鉗子でつかみ出し、広げて片方の紐を看護師に渡す。消毒されていない部分に触れないよう気を付けながら片腕を通し、反対側の紐を渡して残りの腕を通し、背中で結んでもらう。胸の前に垂れたマスクを持ち上げ、これも後ろで結んでもらう。紐を持つ場所も、中途半端だと看護師の手に触れる危険性があるので、外科医は端を持ち、看護師は中ほどを持つと決まっていた。

 ガウンを着終わると、滅菌手袋を看護師に出してもらい。指でつまんでどこにも触れないように注意しながら、一気に奥まではめる。

 外科医が手術に向かうときは、清潔(滅菌済み)と不潔(滅菌されていないあらゆる場所)が厳格に区別されていて、わずかでも不潔の部分に触れると、また一から手洗いをし直さなければならない。ボクは1度、手洗いをする前にうっかり鉗子でなく素手で帽子を取ってしまい、看護師に申告すると、ベテラン看護師は何の迷いもなく、滅菌カストを丸ごと使用済みにしまった。ボクが触れた帽子だけ使用済みにすればいいと思っていたので驚いたが、それくらい清潔と不潔は厳しく分けられていた。

 これだけ厳密な手順を踏むと、自ずと手術に向かう気合が盛り上がる。たまにテレビドラマなどで、手術ガウンに身を包み、両手を胸の前に持ち上げた外科医が登場するが、まさにあの気分だ。恰好だけは一人前だが、はじめての手術参加でどうなることかと不安だった。

 いや、実際はさほど不安でもなかった。手術が初体験の研修医に、そんなにむずかしいことをさせるはずはないと思っていたからだ。優秀な研修医と評価されたいなどと思っていると緊張もしただろうが、ボクは端からそういう気はなかったので、落ち着いていたのかもしれない。

(後編に続く)

(2021.11.01更新)