[11]恐怖のウイルス感染

 研修医の仕事はキツイ、キタナイ、キケンの3Kである。

 キツイは言うに及ばず、キタナイは患者さんの糞尿や痰を間近に扱うからで、キケンは針刺し事故である。まだHIV(エイズウイルス)が問題になる前の時代だったから、恐怖の対象はもっぱら肝炎ウイルスだった。

 当時、肝炎ウイルスはA型とB型までしかわかっておらず、それ以外はノンAノンBと大雑把にまとめられていた。中でも恐れられていたのはB型肝炎ウイルスで、感染すると劇症肝炎というきわめて治療困難な状態になり、あっと言う間に死ぬ危険性があった。

 針刺し事故は、注射針のキャップをかぶせるときや、採血管に血液を移すときなどによく起こった。注射器を持ったまま振り向いたりすると、自分や他人の指をかすめることもある。ウイルスはほんのかすり傷でも感染するので、血のついた針を持っているときは、全神経を針先に集中しなければならなかった。

 研修医の受け持ち患者は順番で決まるので、肝炎ウイルスがプラスの患者さんが当たっても文句は言えない。ボクも一度、劇症肝炎を起こしやすいB型肝炎ウイルスのe抗原(+)の患者さんを受け持った。肝臓がんの患者さんで、黄疸が出ていたので、すぐには手術ができず、第二内科と共同で、血漿交換という治療をすることになった。そのためにまず点滴用に太めのエラスター針を留置しなければならない。研修医にはハイレベルの処置で、細いエラスター針は入れたことはあったが、太いのははじめてだった。

 病室には第二外科の指導医2人と、第二内科の指導医と研修医がいて、このエラスター針の挿入は、指導医がやってくれるだろうと思っていた。ところがだれも手を出さない。エラスター針は内筒の金属針を血管内に入れたあと、外筒のプラスチックチューブだけを残して金属針を抜くので、出血もしやすく、針の扱いもむずかしい。だれもが二の足を踏むのは当然だった。

 すると、指導医の1人がやにわにボクに向かって、「ここはおまえがやれ」と指示した。この指導医は見栄っ張りで、我々第二外科はe抗原など恐るるに足りずという雰囲気を出したかったようだ。それなら自分でやればいいのに、ズルいヤツだ。

 ボクは覚悟を決め、患者さんの下腿に駆血帯を巻き(腕は患者さんが動かすので、この場合は不適とされた)、くるぶし近くの静脈を入念に指で探って、抜き身のエラスター針を構えた。血液に触れる前なら安全だが、いったん患者さんの皮膚を刺せば、針はウイルス感染の凶器に変わる。

 幸い、静脈はほどよく怒張していたので、基本を思い浮かべつつ、思い切って刺入した。すぐ血管に当たり、角度を考えながら針を進めて、十分入ったところでプラスチックチューブを先に進め、金属針を抜いた。血液の逆流を防ぐため、チューブの先端あたりを指で押さえ、あらかじめ用意した点滴のコネクターを手早くつなぐと、ほぼ無出血で操作を終えることができた。

「ま、こんなもんです」

 ボクに危険な仕事をさせた指導医が、何やら誇らしげに言ったので、ボクはそいつの足を蹴りそうになった。

 この患者さんはそれですんだ(結局、容態悪化で手術はできなかった)が、別の患者さんで針刺し事故を起こしたことがある。

同じく肝臓がんの患者さんで、ICG-Rmaxという短時間に何度も採血をしなければならない検査をしていたときだ。ICGという色素を注射したあと、採血の時間間隔が決まっているので、焦ってしまい、針にキャップをかぶせるときに人差し指を突いてしまった。あっと思ったが遅かった。すぐ血を絞り出して水で洗ったが、そんなことでウイルス感染は防げない。

 その患者さんはB型肝炎の抗体は(+)だったが、抗原は(-)だった。つまり、以前、感染して抗体はできたが、抗原であるウイルスは排除されているということだ。それで少し安心したが、ほかの病原体に感染している可能性は否定できない。

 そう思っていると、次に返ってきた検査で、TPHAとワッセルマン反応が(2+)だった。どちらも梅毒の検査だ。梅毒スピロヘータが針刺し事故で感染する可能性は少ないが、危険性はゼロではない。自分は不適切な行為をしていないのに、梅毒になどなったら目も当てられない。念のため、治療薬のペニシリン剤をのんだら、アレルギーでじんましんが出て散々だった。

 あれから40年たっても肝炎にも梅毒にもなっていないので、幸い、感染はなかったのだろう。