[37]大モノ手術の憂うつ

 年が明けて研修も後半に入ったが、先にも書いたように、ボクは1月には妻と夜行バスで信州にスキーに行ったり、奈良で開かれたムンク展を観に行ったり、ヴィスコンティの映画『ルートヴィヒ』を観に行ったりと、相変わらず新婚生活を楽しんでいた。

 青木繁をモデルにした小説もずっと書き続けていて、もちろん小説家になるという志も最優先にしていた。

 というわけで、研修医としてレベルアップの時期に入っていたのに、ボクの出力は30%くらいのまま上がらなかった。

 これではイカンと自らを叱咤し、一度だけ、抗生剤の使い方を完璧にマスターしようと、空き時間にひとり当直室にこもって勉強をはじめたことがある。ところが、1時間もすると、小説のアイデアが浮かび、こんなことをしていては小説家にはなれないと反省して、また原稿書きにもどった。そして、勤務時間が終わると、例によって脱兎の如く家に帰った。

 そんな態度だったので、当然、指導医からも研修医仲間からも、白い目で見られていたが、あまり気にならなかった。それより問題は、何日も病院に泊まり込みになって、執筆も新婚生活も楽しむこともできなくなる大モノ手術──食道がんや膵臓がん──の患者さんを受け持つことだった。

 患者さんの受け持ちは、各疾患ごとに順番に割り振られていた。そういう大モノ手術の患者さんにリーチがかかると、ほかの研修医たちは心待ちにしたようだが、ボクは憂うつになった。だから、受け持った食道がんの患者さんがインオペになると、患者さんには気の毒だったが、ボク自身はヒマになるのでありがたかった。

 インオペになると、手術を学ぶ機会が失われるので、ほかの研修医たちはその患者さんは順番からはずして、もう1人同じ疾患の患者さんを受け持ちたいと主張することが多かった。すると、リーチがかかった研修医は、2番手に下がるので、不服な顔になる。ボクはインオペでも順番からはずさなかったので、次の研修医はリーチのままで、お互い好都合だった。ここだけは妙にほかの研修医と利害が一致した。

 しかし、そうインオペがあるわけでもなく、ボクも何度か大モノの手術の患者さんを受け持った。そうなると患者さんが入院してくる前から気分が沈み、妻と遊びに行っても楽めず、小説の執筆も捗らなかった。

 これではイカンと、ふたたび自らを叱咤し、ある食道がんの患者さんを受け持ったとき、「開腹をボクにさせてください」と指導医に頼んだ。研修医は通常、メスは持たせてもらえないが、研修の後半に入ると、積極的な研修医は自ら申し出て、最初に腹部にメスを入れる“開腹”をさせてもらう者が出ていた。ボクも遅ればせながら、それに倣ったのである。

 指導医は温厚で優しいM先生(「患者さんの依怙贔屓」に登場)で、すぐOKしてくれた。

 食道がんの手術は、まず患者さんを横向きにして、胸部を切開し、背骨の前を通る食道の切除からはじまる。ほぼ午前中いっぱいかかってその処置が終わると、患者さんを仰向けにして、腹部を切開し、胃管を作る作業に入る。

 患者さんの体位を変えたあと、「ほんなら、君、やってみ」と、食道・胃疾患グループのチーフ、O講師がボクに言った。

 看護師からメスを受け取り、「お願いします」と言って、ボクは腹部を切開に初挑戦した。O講師や周囲で手術を見学していた指導医たちが、固唾を呑んでボクの手元を見る。何しろ折り紙付きのダメ研修医が、はじめてメスを持つのだから、不安は当然だろう。

  開腹はまず皮膚を切って、皮下脂肪を切って、腹直筋の間を切って、その下にある薄い腹膜を持ち上げて切開する。上手な外科医は、最初の切開で一気に腹膜の手前まで切る。下手な外科医は、ビクついて何度もメスを走らせる。もっともやってはいけないのは、切りすぎて腹膜の下の腸を傷つけてしまうことだ。

 ボクが開腹を申し出た患者さんは、高齢の女性で、皮膚も皮下脂肪も極端に薄かった。加減がわからず、慎重になりすぎて、最初の切開で皮膚のごく表面しか切れなかった。すると、O講師が苛立った声で怒鳴った。

「君がこんなに下手やとは思わんかった」

 周囲の指導医たちも浮き足だって、「メスは危ない。電気メスに替えさせろ」と、ボクからメスを取り上げた。メスはスパスパ切れて出血するが、電気メスは止血しながら切開するので、まだしも安心だったのだ。

 辛うじて開腹を終えたが、そのあとボクは鉤引こうひき(ステンレスのヘラで術野を広げる役目)をさせられ、途中で疲れと失望で朦朧状態になった。すると、O講師が怒って、「君は少し休んでろ」と、休憩を命じられた。つまりは戦力外通告。手術から追い出されたのも同然で、さすがに屈辱だった。

 20分ほどすると、M先生がまた手術に復帰させてくれたが、ボクの心は折れたままだった。

 自業自得とはいえ、今思い出しても、苦い記憶である。