[45]迷った末に“外科医の奴隷”に

 第二外科での研修のあとはどうするのか、道は大きく分けてふたつあった。

 ひとつは第二外科に入局して、関連病院に派遣される道。これはほとんどの研修医が進むコースで、一人前の外科医になるため、多忙な毎日をすごすことになる。平凡だが安全な選択で、同期にも遅れを取らないですむ。しかし、小説家になることを目指すならどうか。ヒマな病院に派遣されればいいが、忙しい病院に行かされると、小説を書く時間が取れなくなる。

 今ひとつの道は、麻酔科の研修医になることで、麻酔の技術を習得することは、外科医としても有益なので、1年先輩のオーベンたちも2人が麻酔科に進んでいた。

 麻酔科は受け持ち患者がいないので、手術がすめば病院から解放される。休日や夜中に呼び出されることもない。おまけに麻酔科では、平日の1日を「研修日」と称して、休みにすることができたので、小説を書く上では願ってもない要件だった。

 もし麻酔科に進むのなら、ボクは月曜日を研修日にしようと考えていた。当時、土曜日は午前中出勤だったので、休みは日曜日だけだった。たまに月曜日が祝日だと、連休になって大いに喜んだものだ。それが月曜日を研修日にすれば、毎週が連休になるのである。小説を書くにも遊ぶにも、これほどの好条件はない。

 そこでボクは麻酔科に進もうと思ったが、これにもふたつの道があった。

 2年目の研修医は定員が3人のところに7人の希望者がいるので、ひとつはクジで決めるという道。今ひとつは、はじめから2年間、麻酔科で研修を受けると約束すれば、優先的に研修枠に入れてもらえるという道だった。クジにはずれて外科の多忙な病院に行かされるのは困るが、2年も麻酔をやると、外科医としては大きな遠回りとなる。

 そのまま麻酔科に残れば、留学のチャンスもあるし、子どもができたら家族サービスの時間も取りやすい。だが、当時は麻酔科の常勤ポストがある病院は限られていて、就職先が不安定な上、収入もさほど多くない。病院に所属しないフリーの麻酔科医になる道もあるが、これは自由で高収入だが、いわば根無し草で不安定きわまりない。

 生活、収入、小説、外科医への未練もあり、自由はほしいけれど、安定も捨てられないという自己撞着に陥った。

 小説家になることについては、研修医のうちにデビューできなければ、医者として働きながらでは、十分に小説に打ち込めないのではという心配もあった。だから日々、焦っているのだが、家庭もあるので、臆病ながら安全な道を行ったほうがいいという思いと、挑戦できるのは若いうちだけだと、自分を鼓舞する思いもあって、気持ちが乱れて答えが出せなかった。

 妻に相談すると、「あなたの好きな道を行けば」の一言で、冷たいのか信頼してくれているのか、はたまたボクの人生になど興味がないのか、状況を説明しかけると、「そんなこと、クドクド考えても仕方ないわよ」と一蹴され、やはり自分で決めるしかないと肚をくくらされた。

 結果、選んだのは、はじめから2年麻酔科にいる約束で、優先的に研修枠に入れてもらう道だった。やはり決め手は小説を書く時間がいちばん多く確保できるということである。

 そのあと、土曜日の午後に医局の有志でテニスをしたとき、指導医のK先生に、「おまえ、次はどうするんや」と聞かれたので、「麻酔科に行きます」と答えると、「麻酔科? あんなもん、外科医の奴隷やないか」と、さも蔑むように言われた。

 たしかに、麻酔科医は手術が続いている間は外科医の言いなりにならなければならない。それどころか、手術の前から患者さんに麻酔をかけて準備をし、手術がすんで外科医が手を下ろしたあとも、麻酔をさまして、患者さんを手術室から送り出さなければならない。それで病気を治すという手柄は、すべて外科医が持っていく。

 しかし、麻酔科医がドクターストップをかけると、手術そのものができなくなるので、手術前は外科医も「よろしくお願いします」と低姿勢になる。手術が終わったあとも、麻酔科医につむじを曲げられると次の手術がやりにくくなるので、「ありがとうございました」とやはりていねいに応じる。しかし、心の中では外科医はそんなふうに思っているのかと、軽いショックを受けた。

 K先生は後に教授候補にもなった優秀な外科医で、手術だけでなく卓球やテニスもうまかった。オシャレで研修医にも人気があったが、優秀であるがゆえに、自信家でやや高慢なところがあったようだ。

「外科医の奴隷」などという過激な言葉を使ったのは、個人的にダメ研修医のボクにムカついていたからかもしれない。ボクの父は麻酔科の草分け的な医者だったが、K先生はもちろん知らなかったのだろう。知ったらどんな顔をするかと思ったが、何も言わずに曖昧な笑みだけ返した。

[44]薄毛対策

 ボクは子どものころから髪の毛が多くて、中学と高校でサッカーをしていたきは、髪の毛を振り乱して走るので、“ライオン丸”という渾名がついたほどだった。

 そのボクが、最初に自分の薄毛に気づいたのは、大学生になって理髪店で前髪を切ってもらうとき、中央部分より左右がやや少ないと感じたときだった。だが、それも気にするほどではないと思っていた。

 しかし、大学5回生のとき、三面鏡で自分を見て、ふと頭頂部の髪のボリュームが少ないことに気づいた。手鏡で頭頂部を確認すると、恐ろしいことに、わずかに地肌が透けて見えた。

 そこではたと、遺伝に考えが及んだ。父は頭頂部がハゲていて、祖父は額がハゲ上がっていて、写真で見る曾祖父は海坊主のようなハゲ茶瓶だった。ハゲ方が遺伝的に順繰りだとすれば、ボクはハゲ茶瓶の番になる。

 大学を卒業して研究医になると、自分だけでなく、周囲にも薄毛が気づかれだした。

「おまえ、髪の毛、薄いんとちゃうか」

 相手は悪気なく言うのだろうが、こちらは胸に大砲の弾を受けたくらいにドキンとする。背後に人が立ったり、座っているときにだれかが後ろを通ったりすると、ゴルゴ13並に神経過敏になって、後頭部を見られているのではないかと緊張した。

 そんなとき、雑誌か何かで「ミラクルグリーン」という薄毛予防剤の宣伝を見つけた。まだコマーシャルを信じるほどに未熟だったボクは、そのネーミングに期待して購入した。薄毛は男性ホルモンの影響が強いので、それを抑制すれば薄毛は防げるというのが謳い文句だった。増強するのではなく、抑制するというところに、一抹の不安を覚えたが、その話をすると、額がハゲ上がりつつあった研修医のYと、全体が薄くなりつつあった指導医のS先生が、自分もその薬を使いたいと言い出した。

 それから3人は顔を合わすたびに、互いの効果を確認し合うようになった。むろん、すぐには変化は現れない。S先生は東京の出身だったので、標準語のアクセントで、「どんな感じ?」などと聞いてくる。ボクが「夜、寝るとき、枕が少し遠くなったような気がします」などと答えると、「じゃあ、効いてるんじゃない」と、表情を明るくしたりした。

 しかし、結局は3人ともやめてしまった。効果を信じようにも、無駄であると認めざるを得なかったからだ。

 以後もボクは薄毛対策には腐心し、外務省の医務官としてパプアニューギニアに赴任したときは、逆に、いっそのこと髪の毛がすべてなくなれば、薄毛対策も不要だろうと、シンガポールに出張したとき、現地の理髪店でスキンヘッドにしてもらった。帰宅すると、子どもたちが「フェスター、フェスター」とまとわりついてきた。アダムスファミリーに登場する丸ハゲのフェスターおじさんに見えたのだろう。

 スキンヘッドにすると、薄毛対策は不要になったが、髪のあるところはすぐ生えてくるので、毎日、髭剃りの要領で剃らなければならず、これはこれでけっこう面倒だと知った。

 40代半ばのとき、「リアップ」というナイスなネーミングの増毛剤が出て、いかにも効果がありそうだったので使ってみることにした。これは頭皮に塗る液状タイプだったので、医学的に効果を判定するため、毎朝、頭の右半分にだけ塗ってみた。塗らない左に比べて有意差があれば、同じ人間の頭皮で同時に試すのだから、この上ない比較試験のエビデンスとして認定できるだろう。

 5カ月間、休まず実験を続けたが、左右差はまったく見られず、残念ながらボクには無効であることが判明した(ウサギの耳にコールタールを塗って世界初の人工がんを作った山極勝三郎博士は、3年以上も頑張ったのだから、ボクももう少し続けるべきだったかもしれないが)。

 さらに50代後半には、「プロペシア」というちょっとイヤな名前の増毛剤(英語のalopecia=脱毛症を連想させるので)が出た。これは飲み薬で、高価だけれど(半年分で約5万円)、よく効きそうに思えて、服用をはじめた。1年くらい続けたが、やはり効果が感じられないので、中止しようと思ったら、「この薬はやめると急に脱毛が進む」という恐ろしい噂を聞きつけ、やめるにやめにくくなった。それでもやはり効果がないので、漸減療法(毎日の服用をしばらく2日に1回にし、さらに3日に1回、4日に1回と、徐々に減らす)でやめることに成功した。

 60代後半になると、ハゲていることに抵抗がなくなり、増毛剤への興味もなくなった。言わば“悟りの境地”に至ったわけだ。こうなれば背後に人が立とうが、上からのぞかれようが、何ともなくなる。

 どうせなら、もっと早くにこの境地に到達したかった。

[43]祖父の死

 524日。午後のカンファレンスに出ていると、家から大学病院に電話がかかってきて、祖父が危篤だと知らされた。

 祖父は13年前、ボクが中学2年生のときに脳血栓で倒れ、右半身不随になって、自宅で療養していた。元々は医者で、戦前は開業していたが、30歳で召集され、中国北東部に出征した。どういうわけか、一般の兵士として召集され、新兵の訓練で、若い兵隊について行けず、上官に「情けないヤツやな。シャバで何をしとったんや」と聞かれて、「医者です」と答えるや、「ほんなら軍医やないか」ということで、一挙に二等兵から見習士官に格上げされ、苦しい訓練を免れたという奇妙な経歴の持ち主だった。

 学生時代から多才で、飛行機の模型作りに熱中して、ゴム動力の親子飛行機や、ビラ撒き飛行機、落下傘飛行機を作ったり、手書きの「飛行機見物」という絵入り雑誌を発行して、友人に回覧したり、エボナイト製のクラシックレコードを集めたり、医者になってからも、ピアノで作曲をしたり(後年、NHK「あなたのメロディ」にも登場)、自宅で音楽会を開いたり、8ミリフィルムで監督、脚本、主演、家族総出の短編映画を撮ったり、カメラ好きで写真のコンクールに応募して、何度も入賞したりしていた。

 戦後は国立南大阪病院に勤め、最後は副院長になったが、医者の仕事はそっちのけで、副院長室にテープレコーダーやいろいろな工作器具を持ち込み、趣味に没頭していたようだ。そのころは舞踊に凝って、三味線を折りたたみ式に改造したり、紙と墨でカツラを自作したり、当時では珍しいポータブルのビデオカメラを購入して、自宅に踊り場を作って、自分の踊る姿を撮影したりしていた。

 当時、毎日放送がやっていた「素人名人会」にも応募し、どういう伝手か、踊りの審査をしていた花柳芳兵衛師匠を自宅に招き、「名人賞」が取れるかどうか、前もって見てもらったりもした。

 そうやって準備を進めていた矢先、69歳のときに脳血栓で倒れたのだった。

 ボクは小学1年生のとき、祖父宅でテレビをつけっぱなしにして、祖父に大声で叱られてから、恐怖心が先に立ち、祖父に慣れ親しむことができなかった。小学6年生のときに、祖父の踊りをビデオで撮影するように言われたときも、うまく撮れるかどうか緊張した。

 その後、中学生になって、そろそろわだかまりが消えかけたころに、祖父が倒れたので、結局、親しい関係にはなれずじまいだった。それでも、ボクが大学に合格したときは喜んでくれたし、卒業したときも、結婚したときも、言語障害の不自由な言葉で祝福してくれた。

 祖父はずっと自宅にいたが、祖母は身体が弱かったので、介護は主に母が通いで担っていた。祖父は前立腺肥大で、膀胱ろう(下腹部に穴を開け、膀胱にカテーテルを挿入して排尿させるもの)を作っていたが、そのカテーテルの洗浄なども、元看護師の母がしていた。介護保険や在宅医療などはまだ影も形もなく、母の苦労には簡単に語りきれないものがあったと思う。

 祖父危篤の連絡を受けたあと、ボクは指導医に許可をもらって、すぐに大学病院を出た。その日は車で出勤していたので、阪神高速に乗り、死に目に間に合うように堺の祖父宅まで車を飛ばした。

 しかし、祖父はこれまでにも何度か危篤になりかけ、その度に持ち直していたので、もしかすると今回も復活するかもしれないという不安がよぎった。そうなると、深刻な顔で病院を飛び出したボクは恰好がつかない。ただでさえ、サボリのダメ研修医と見られているのが、また口実を作って早退したと思われかねない。そこでハンドルを握りながら、オジイチャンが死なないと困るなと、バチ当たりことを思ったりした。

 祖父宅に着くと、幸いというのもヘンだが、祖父はすでに下顎呼吸になっており、死は免れない状態だった。祖母、父、母もベッドの横に控えている。自宅なので心電図などはつけていないが、次第に下顎呼吸が間遠になり、やがて最後の息がもれた。

 ボクは型通りにベッドに上がり、祖父に心臓マッサージを行った。今ならそんなバカなことはしないが、研修医のころは、心臓が止まったら心臓マッサージをすると、刷り込まれていたのだ。

 数回、胸を押すと、祖母が「もう、ええ」と言って、ボクを止めた。祖父が蘇生しないことは、だれの目にも明らかだった。行年83

 静かに祖父の死に顔を見ていると、玄関に慌ただしい足音がして、祖父の妹である大叔母が駆け込んできた。そして、祖父のベッドに近づくや、「兄ちゃん、しっかりしいや」と叫んだ。祖母がすでに臨終だと告げると、大叔母は「なんや。みんな冷たいやないか」と怒った。大叔母にすれば、祖母や我々が、何もせずに祖父を死なせたように思えたのだろう。それこそ心臓マッサージでもしていれば、大叔母も納得したのかもしれない。もちろん、それは意味がないだけでなく、祖父の穏やかな最期を乱すものであるのは明らかだ。

 大叔母は離れて暮らしていたこともあり、めったに祖父の見舞いに来ていなかった。いわゆる“遠くの親戚”というヤツだ。その後、病院で穏やかな看取りを乱す家族を見るたびに、ボクはあのときの大叔母を思い出した。