[58]研修医生活の終わり

 麻酔科の研修医になったのは、平日に1日休みがもらえて、小説を書く時間が取りやすいからだった。

 もちろん平日の休みだけでなく、小説はずっと書き続けていた。卒業前から書いていた青木繁をモデルにした小説は、800枚を越えたあたりで頓挫し、次はムンクがベルリンの「黒仔豚亭」という酒場でストリンドベリらと屯ろして、ボヘミアンな生活を送り、トゥラ・ラールセンという女性をミューズとして崇めていた話(ムンクは彼女をモチーフにした作品を多く描き、ピストル暴発事件で手に銃弾を受けたりしている)に触発されて、舞台を架空の地に移して、「ラールセン村」という小説を書きはじめた。「黒仔豚亭」を「仇花亭」、ムンクを「斧三郎」として(トゥラをモデルにした女性の名前は忘れた)、サハリンあたりをイメージして快調に書き進めた。

 麻酔科の研修の最後のほうで新研修医が入ってきたあと、1週間の休みがもらえたので、単身、小豆島に渡り、銀波浦ぎんぱうらというところの「朝日」という民宿に逗留して、「ラールセン村」の執筆に打ち込んだ。この民宿を選んだのはたまたまで、季節はずれのため客はボクしかおらず、執筆に没頭するには最適の環境だった。2階の1部屋をあてがわれ、朝から晩まで、ひたすら机に向かって書いた。自作自演の作家気取りで、自己満足も甚だしいが、胸の内は惨めさと焦りでいっぱいだった。こんなことをして、いったい何になるのかという疑念が、常にどす黒くうずまいていたから。

 当時はパソコンもネットもないので、原稿用紙に手書きで、自分の想像力だけを駆使して書いた。最初の興奮をエネルギー源に書き継いだが、結局、この作品も600枚あたりで挫折してしまった。

 長編だけでなく、短編も書き継ぎ、麻酔科の研修中に3冊目の自費出版、『FRANZ』を出したのは前述の通り。前2作と同じく、紀伊国屋書店の自費出版コーナーに置いてもらったが、期待した出版関係者からの連絡はなく、時間ばかりすぎて、小説家になる夢は1ミリも現実に近づかなかった。

 そんなとき、同じ自費出版コーナーで本を出していた人が手紙をくれ、やり取りをする中で、本気で小説家になりたいと思っているなら、同人雑誌に入るとよいとアドバイスしてくれた。親切にも、ボクの地元に発行所がある同人雑誌の連絡先を5つほど書いてくれていたので、さっそくその中の「文学地帯」という雑誌に連絡を取った。今ならネットでそれぞれの雑誌を調べられるが、当時は何の情報もなく、単に誌名のイメージから選んだのだった。

「文学地帯」は歴史のある同人雑誌で、ボクが小説家になることを目指していると言うと、主宰者のS氏は、文壇の事情などをいろいろ教えてくれた。「取りあえず、うちで頑張りなさい」と言われて同人になり、毎月行われる例会にも出席するようになった。

 麻酔科での研修は終りに近づいていたが、はじめの約束通り、もう1年麻酔科に在籍しなければならない。新研修医がいるので、大学病院には残れない。となると、どこかの関連病院に出ることになるが、多忙な病院に行かされると、執筆の時間が取れない。どうしようかと思っていると、3カ月先に大阪府立成人病センター(現・大阪国際がんセンター)に行っていた研修医仲間のMが、医局に来たのでようすを聞くと、「楽や」との答え。

 Mはボク以上にいい加減な研修医で、その彼が楽だと言うのならまちがいない。そう思って、医局長に「次は成人病センターに行かせてください」と申し出た。すると、ほかに希望者がなかったらしく、すんなりと受け入れられた。

 成人病センターには、研修医としてではなく、麻酔科のスタッフとして勤務することになる。当然、平日に休みなどはなく、当直もひとりでこなさなければならない。一人前扱いになるので、責任も重大になる。研修医としてやってくる後輩(近畿大学から研修医を受け入れていた)の指導もしなければならない。医シャとしてのキャリアはどんどん進むのに、小説家としてはまったく先が見えない。結婚もしているので、仕事をやめるわけにもいかない。やがて子どもも生れるだろう。親も老いていく。そうやって目の前のことをこなしているうちに、時間はすぎ、一生などあっという間に終ってしまうのではないか。

 そんな不安に駆られて、ひとり焦ってみても、現実は何も変わらない。志はあれど、まるで将来の見えない27歳の終りだった。