[17]秘かな執筆活動

 研修医になったら、医師としての研修に集中すべし。言わずもがなだが、ボクはずっと小説に気が向いていたから、病院で居残りなどしているとき、指導医や同僚の目を盗んで、空いているカンファレンスルームなどで小説の原稿を書いていた。空き部屋がないときは、屋上ロビーの卓球台の上で書いたりもした。

 当時はパソコンはもちろん、ワープロもないので、原稿用紙に手書きだった。使っていたのはコクヨのB550枚綴りで、表紙も枠線もグリーンのものだ。yahooGoogleもないので、手持ちの資料だけが頼りだった。

 原稿はもちろん自宅でも書いたし、当直のアルバイト先でも書いた。夜の当直室はだれも来ないので、病棟や外来の呼び出しがなければ、執筆には好都合だった。そこで多ければ78枚、少ないときでも23枚、歯を食いしばるようにしてマス目を埋めていた。

 そのころ取り組んでいたのは、画家の青木繁をモデルにした長編である。きっかけは学生時代に京都の展覧会で、名作「海の幸」を見て、ある発見をしたことだった。

 もともとボクは青木繁の絵よりも、その強烈な人生に惹かれていた。芸術に揺るぎない信念を持ち、傲岸不遜で、他人の絵に勝手に筆を入れ、「よくなっただろう、感謝しろ」とうそぶいたりしていた。東京美術学校の在学中に、第1回の白馬賞を受賞し、続いて「海の幸」で一躍、画壇の風雲児となったが、自信作の「わだつみのいろこの宮」に屈辱的な評価を下され、それに反発して流浪の身になり、画壇と世間を呪詛しながら、28歳で結核のため亡くなった。

「海の幸」は、まるで神話の世界から抜け出たような全裸の猟師が10人、2列になって巨大な鮫を担いで歩く勇壮な絵だ。中央手前の漁師は胸を張り、全身に太陽を浴びて、のんきとも見える充足した表情で銛を担いでいる。ほかの漁師とは異なる繊細なタッチで、全身が光り輝いている。

 もう1人、異様な印象を与えるのは、奥の列からこちらに視線を向ける白い顔だ。身体にはペニスらしき影も描かれているのに、明らかに女性の顔だ。モデルは青木の恋人、福田たねである。

 もともとこの絵が白馬展に出品されたときには、別の顔が描かれていた。たねの顔と手前中央の漁師の全身は、作品が完成したあとに描き加えられたものである。なぜ青木はそんな加筆をしたのか。

 当時、青木は画壇で注目され、たねの懐妊もあり、自らの将来に大きな期待を抱いていたはずだ。青木がこの絵に賭ける意気込みも、そうとうなものだったろう。

 京都の展覧会で実作を目にして、異様な雰囲気を感じて凝視するうちに、ボクは思わず声をあげそうになった。手前中央の猟師と、たねの顔をした奥の猟師が、2人で1尾の鮫を担いでいるのだ。2列の行列で、手前と奥で斜めに担ぐのは明らかに不自然だ。

 青木の絵は、ときに全体の構図が優先され、細かな位置関係や遠近法が無視されることが少なくない。「わだつみのいろこの宮」でも、山幸彦と豊玉姫が顔は接近しながら、足元には距離があるし、「大穴牟知命」でも、キサガイヒメの乳房の位置がおかしい。

 青木は勢いに任せて「海の幸」の構図を決め、一気に描き上げてから、あとでこの2人が同じ鮫を担いでいることに気づいたのではないか。そこで彼は、手前中央の漁師に自分をなぞらえ、巨大な鮫を自分の輝かしい未来に見立てて、それを担ぐ相棒にたねの顔を描き込んだ。

 すなわち、青木は敢えて全体の調和を乱すこともいとわず、「海の幸」を自分とたねとの未来の象徴として描くことで、作品に蠱惑的な魅力を与えたのだ。

 そう気づいたとき、ボクは全身が痺れたような衝撃を受け、しばらく絵の前から離れられなくなった。絵の表面、絵具のマチエール、筆の跡から、それを描いた青木が今そばにいるような錯覚を抱き、胸が苦しくなるほど興奮した。

 その後、青木は「わだつみのいろこの宮」以後、たねと幼い息子を置き去りにして、故郷の九州に帰り、酒に溺れ、病に侵され、のたうちまわるような苦悩のうちに最期を迎える。病床で姉宛てに書かれた遺書には、青木の無念と遺恨と慚愧が綴られ、何度読んでも涙を禁じ得ない。

 その感動、切なさ、激情をぜひとも小説にしたくて、研修の傍ら憑かれたように執筆に励んだのだが、結局、800枚を超えたところで中断し、その原稿は今も我が家のどこかで眠っている。

[16]F先生のこと

 F先生は胃がんの専門家で、指導医の中ではベテランの部類だった。ボク以外の研修医にも優しかったが、本人のいないところでは、名前の「二郎」から「ジロやん」と、軽く揶揄するように呼ばれていた。

 実は、F先生は指導医の中の嫌われ者で、医局内で孤立した立場だった。研修医たちが軽んじたのも、その優しさが少しでも味方を増やしたいという下心がミエミエだったからだ(ボクは親切にしてもらったので、嫌いではなかったが)。

 F先生は言葉遣いも丁寧で、物腰も低いが、自己中心的で、自分の主張はぜったいに曲げない頑固な一面があった。

 医局にはいくつも研究室があり、医局員はそれぞれのグループに分かれて研究を進めていた。必要に応じてスペースを確保するが、F先生はあれこれ理由をつけて、だれよりも広い場所を占有していたらしい。

 症例検討会では、胃カメラの診断で、F先生とほかの指導医たちがよくもめていた。胃がんにはボールマン分類というのがあり、がんの隆起と浸潤しんじゅんのちがいで、1型から4型に分けられる。隆起は見た目で判断できるが、浸潤の具合はわかりにくい。そこで2型(浸潤なし)と3型(浸潤あり)で意見が分かれるのだ。

 F先生は検討会の司会も担当していて、胃カメラのスライドが出ると、「これはボールマン2型ですね」などと決めつける。するとF先生を嫌っている指導医や講師が、「いや、周堤しゅうていが崩れてるから3型やろ」などと反論する。

 F先生は自分以外の全員が3型だと言っても、あれやこれやと反対意見を述べ、最後には司会者の特権で、「ということで、これは2型ですね」と、自分の意見を押し通してしまう。ボールマン分類は、手術にはさほど影響のない場合が多く、2型でも3型でも胃の切除範囲はほとんど変わらない。にもかかわらず、研修医の前で講師や指導医が大人げない言い合いをするのを見ていると、いかに仲が悪いのかがわかった。

 F先生は上司の講師を恐れないばかりか、教授にさえ楯突いたことがあったらしい。

 神前五郎教授は、F先生が医局内の宥和を乱すので、大学から関連病院に転勤させたいと考えていた。ところが、F先生はそれに従わず、あくまで転勤させると言うのなら、裁判に訴えると脅したという。当時の医局制度では、教授の権力は絶対で、医局員が逆らうなどということはあり得ないことだった。

 しかし、F先生は教授に従わなかった。この状況を、ある指導医がこう説明した。

「教授は“五郎”やからこうやろ(と言って指を5本広げる)。F先生は“二郎”やからこうなんや(指を2本立てる)。チョキとパーで、二郎のほうが五郎より強いんや」

 思わず「座布団3枚!」と言いたくなる解説だった。

 主張は強引だったが、F先生は手術の腕前がイマイチで、聞いたところでは、一度、比較的簡単な手術で吻合不全(縫いつけた消化管が洩れること)を起こし、教授にしばらく手術をするなと言われたらしい。

 ボクが受け持ちになった胃がんの患者さんの手術を、F先生が執刀したとき、血管の処理に手こずり、盛んに「この患者さんのアノマリー(通常とちがう状態)はすごいですな」と繰り返していた。自分の腕が悪いのではなく、患者の血管が異常だから手間取っていると言いたかったのだ。だが、F先生を嫌っていた第二助手の講師は、一度も「そうだな」とは言わなかった。

 その後、F先生は神前教授が退官したあとも大学に居残り、相変わらず嫌われていたようだ。しかし、さらに次の代で自分の後輩が教授になったとき、さすがに居づらくなって大学から出た。

 どこの病院に転勤したのは知らなかったが、しばらくして、F先生の名前が新聞に出た。がんの専門医であるF先生が、抗がん剤には発がん性がある・・・・・・・・・・・・・という論文を提出したという記事だった。胃がんの患者さんに抗がん剤を投与すると、ほかの臓器にがんができる危険性が高まるというのだ。

 抗がん剤で治療をしている医シャにすれば、こんな皮肉な論文はないだろう。いかにも人に嫌がられるF先生らしい着眼点だと、思わずニヤリとした。