[28]シップル症候群

 秋にボクが受け持ちになったOさんは、50代半ばの男性で、病気は「甲状腺髄様ずいようがん」だった。

 甲状腺のがんには「乳頭がん」「濾胞ろほうがん」「未分化がん」などの種類があり、「髄様がん」はその中のひとつで、かなり珍しいタイプである。さらに髄様がんの一部には、遺伝性のものがあり、「多発性内分泌腺腫瘍症」=「シップル症候群」と呼ばれていた。

 Oさんの髄様がんは、どうやらこのシップル症候群らしいということになり、甲状腺疾患グループのチーフT先生と、No.2のM先生が色めきだった。シップル症候群は稀少疾患だし、いろいろ研究の余地もあったので、そんな症例が手に入った(?)ことで、研究者のさがとして血が騒いだのだろう。

 ボクは研究には興味がないので、2人の反応に不快な思いを抱いた。患者さんはがんで生きるか死ぬかの瀬戸際なのに、自分たちの研究材料になるからといって、嬉しそうにするのはいかがなものかと思ったのだ。もちろん、T先生もM先生も喜色満面ではなかったが、平静を装いつつも、言葉の端々に喜びが隠しきれないようすだった。

 当時の甘ちゃんのボクは、そんなふうに患者さんの立場になって、患者さんの病気を研究対象のように見なす指導医に批判的な目を向けていた。だが、よく考えれば、あらゆる治療法は、かつて病気を研究対象と見なした医シャたちによって開発されたものだ。その恩恵に浴している現代の医シャや患者さんが、未来の治療法を開発するために、目の前の患者さんの病気を利用しようとする医シャを、非難などできないはずだと、今は思う。

 シップル症候群は遺伝性の病気だから、Oさんの家族にも遺伝子の変化が伝わっているかもしれない。だから、家族全員から採血をして、研究の材料にしたいのだが、病気でもない家族を、研究のためだけに病院に呼ぶのは気が引けると、T先生もM先生も思っていたようだ。

 そこでボクがこう言った。

「このOさんは、もしかしたら、ボクの中高の同級生の叔父さんかもしれません」

 住所と名前からそう思ったのだが、調べてみるとその通りだった。

 2人の指導医はぱっと表情を明るくし、「それなら君が連絡して、Oさんの家族を集めて採血してきてくれ」ということになった。

 同窓会の名簿からOさんの姪のCさんに連絡し、ご家族の採血をさせてほしいと頼むと、Cさんは突然の電話に驚いたようだが、了解してくれた。

 ところでこの採血は、ボクにとってはただの採血ではなかった。Cさんがボクの中学・高校(一貫ではなく公立)時代の憧れの女性だったからだ。中学1年生のときにとなりのクラスで、ともにクラスの代議員だったので、朝礼のときに先頭に並んだ。そのときから密かにときめいていたのだった。ところが、Cさんはボクに見向きもせず、ボクも思いを口にできないまま、高校卒業まで高嶺の花であり続けたのだ。

 その彼女に久しぶりに会える。さぞかしきれいになっていることだろう。そう思って、帰宅したあと、採血のセットを持って、自転車でCさん宅に向かった。むかしながらのお屋敷町で、Cさんの家も豪邸だった。出迎えてくれたCさんは、想像以上の美しさで、品のよさを兼ね備えた素晴らしい女性になっていた。

「クゲくん、久しぶり」

 その一言で、ボクは身体の中で何かがとろけるようになったのを感じた。

 和室に招じ入れられると、そこにはOさんの高齢の母親や、子どもさんら数人が集まってくれていた。ボクはOさんの病気について説明し、研究への協力に感謝を述べて、採血の準備にかかった。Cさんにいいところを見せたい。そんな気持ちがありありだったが、すでに研修医生活も4カ月がすぎ、業務にも慣れていたから、採血くらい楽勝だと思っていた。ところが、いざ注射器を構えると、勝手がちがうことに動揺した。

 病院では患者さんはベッドに寝ていて、こちらは立って採血をする。しかし、和室では相手もボクも畳に座っていて、採血は宙に差し出された腕からしなければならない。自分が白衣ではないことにも違和感があった(やはり白衣には目に見えない力があるようだ)。慣れない環境だとこうも雰囲気がちがうのかと焦ったが、そこは憧れのCさんの面前。未熟なところは見せられない。ボクはさも余裕のあるふりで、Oさんの母親から順に血を採らせてもらった。最後にCさんからも採血したが、幸いなことにいずれも失敗せずにすんだ。

 何とか面目を保つことができ、ほっとして礼を述べると、Cさんがボクに言った。

「クゲくん、結婚したそうやね」

……え、まあ」

 即答できず、曖昧な返事で言葉を濁すと、横からCさんの母親が嬉しそうに言った。

「Cも近々結婚して、九州に行くんですよ」

 ああ、そうなのか。ボク自身すでに結婚している身だから、今さらCさんとどうこうなれるわけもなかったが、ボクの中で何かの火がシュッと消えた瞬間だった。

[27]雲の上の教授との対話

 ボクが研修医だったころの第二外科の教授は、医学界で高名な神前五郎こうさきごろう先生だった。

 神前先生は、外科医としての技量、見識、研究のいずれも群を抜く名医で、その権威はまさに“雲の上の人”という感じだった。助教授をはじめ、各疾患グループのチーフの講師も、口を聞くときには居住まいを正し、緊張の面持ちとなる。助手などは畏まって、まともに顔も上げられない。そんな状況だから、研修医に至っては直接声をかけてもらえることなど滅多になく、そもそも眼中にないという感じだった。

 それでも、医局会で新入院の患者紹介をするときには、たまに声がかかる。何か言われた研修医は、それこそ天皇陛下からお言葉を賜ったかのように、平身低頭しなければならない。

 ボクも特発性血小板減少症(原因不明で血小板が減る病気。体内で血小板を壊す脾臓を摘出するため外科に入院)の患者さんを受け持ったとき、新入院紹介で、血小板の値を報告したら、「止血関係は☓☓君が詳しいから、相談しなさい」と言われた。

 このときは「ははっ」と頭を下げるだけでよかったが、次にちょっと複雑な大腸がんの患者さんを受け持ったとき、シャウカステン(X線フィルム観察器)に大腸のバリウム検査のフィルムを掛けると、教授が「バオフィンベンはどこかね」と聞いた。

 ──バオフィンベン。

 はじめて聞く言葉だった。“雲の上の人”である教授に、「それ、何ですか」と聞くわけにもいかない。医局会の参加者は、当然のごとくボクの答えを待っている。この場でバオフィンベンを知らないのは、ボク1人のように思えた。

 仕方がないので、X線フィルムを今一度凝視して、覚悟を決めてこう答えた。

「バオフィンベンは、……ちょっとわかりません」

 そんなこともわからんのか! と怒鳴られるかと思いきや、教授は「わからない? ふむ、そうか」と納得し、ボクは無事、患者紹介を終えることができた。

 キツネにつままれたような気分で、医局会が終わってから指導医に、「さっき、神前先生が言ってたバオフィンベンて何ですか」と聞いた。すると指導医は、「何や、君、バオフィンベンを知らんと答えとったんか。そのわりに教授も納得してたやないか」と、あきれながら感心した。

 バオフィンベンは、回盲弁かいもうべん(回腸と盲腸の間の弁、すなわち小腸と大腸の境目)のことで、ボクは全体がドイツ語の単語だと思ったからわからなかったが、正しくは「バオフィン弁」で、バオフ(Bauch)はドイツ語で腹だから、落ち着いて考えれば、見当はつくはずだった。しかし、相手が“雲上人”だったので、畏まりすぎたのだ。ボクが紹介した患者の回盲弁は、バリウムに隠れて場所がわかりにくかった(だから、教授が訊ねたのだが)。いずれにせよ、教授に箸にも棒にもかからないダメ研修医ぶりがバレなくてよかった。

 余談ながら、神前先生と言えば、山崎豊子氏の『白い巨塔』の主人公、「財前五郎」のモデルだと思っている人も多いが、これはまったくの誤解。山崎豊子氏の秘書を50年以上務めたNさんから直接聞いたのだが、「財前」という名前は、山崎豊子氏の知り合いの映画関係者の財前定生氏から借りたもので、「五郎」は、山崎氏が悪役には濁点の名前をと考えていたので命名したものである。その後、神前先生の存在を知り、財前五郎と1字ちがいの偶然に、山崎氏もNさんもびっくりしたとのことだった。

 神前先生はさすがに大物で、小説のことで大騒ぎすることもなく、それどころか、Nさんによれば、山崎氏が『続・白い巨塔』を執筆する際、財前を逆転敗訴させるための資料を求めると、神前先生は親切に取材に応じてくれ、有益なアドバイスをくれたとのことだった。

 その当時、神前先生は大阪府立成人病センター(現・大阪国際がんセンター)の部長で、第二外科の教授になったのは『白い巨塔』発表の10年後である。しかし、『白い巨塔』の舞台である「浪花大学」が阪大をモデルにし、財前の専門分野も神前先生と同じ消化器外科だったので、医局員の多くもモデルにちがいないと思っていたようだ。神前先生は雲の上の権威者なので、だれも畏れ多くて本人に確かめることができない。神前先生自身も話題にすることがなかったので、よけいに医局員たちは『白い巨塔』には触れられないまま、モデル情報が一人歩きしていたらしい。一部では、名誉毀損の裁判が密かに進行中という都市伝説まで囁かれていた。

 その後、2003年にフジテレビで唐沢寿明主演の『白い巨塔』がドラマ化されたとき、妻の知人が、「ネットで財前五郎のモデルの写真を見つけた」と興奮気味に言うので、スマホの画像を見せてもらうと、やっぱり神前先生だった。

 世間の誤った情報は、なかなか訂正されないのである。

(追記。先日、ある同級生に聞くと、神前先生は外科学の第1回目の講義で、「私は財前五郎のモデルではありません」と、明言したとのことだった。ボクにはまるで記憶がない。例によって講義をサボッていたか、出ていても居眠りをしていたのだろう)

[26]研修中のレジャー

 前回、研修医の仕事は過酷だと書いたが、レジャーもけっこうあった。

 たとえば、少し空き時間があると、病院の屋上で研修医の仲間とキャッチボールをしたり、テニス部だった研修医にテニスのフォームをコーチしてもらったり、若手の指導医もいっしょにロビーで卓球をしたりした。

 一度は、若手の看護師が数人集まってテニスをするというので、ボクを含む何人かの研修医がそれに参加した。場所は当時中之島にあった阪大病院から土佐堀川を渡ったロイヤルホテル(現リーガロイヤルホテル)の横のコート。勤務中だったが、研修医は手術や患者さんの検査の付き添いなどで、病棟にいないことも多かったので、午後の二時間余り姿が見えなくても、さほど不自然ではなかった。

 と、思っていたのはボクだけで、指導医にはバレていたようだ。コートからもどってくると、「遊びに行くのもいいが、新患が入ったら、顔ぐらい見てから行けよ」と、指導医に言われた。たまたまその日、ボクが受け持ちになる患者さんが入院したのだった。今なら厳重注意、いや、研修医をクビになってもおかしくないが、当時は大らかというか、昨今のような不寛容・厳罰主義の風潮はなかった。

 看護師とのレジャーは、ほかにも天神祭の宵宮に行ったり、土曜日の午後にボーリング大会があったりした。いずれも研修医が全員参加で、看護師のほうはなぜか若手限定だった。そんなとき、彼女たちは病棟で研修医に厳しい目を向ける若きお局様から、親しみの持てる女性に変貌するのだった。たとえば、病棟では引っ詰め髪でことさら表情がキツくなるアイメイクの看護師が、髪を下ろし、優しいメイクになって、ボクがたまさかストライクを取ると、「センセイ、スゴーい」などと歓声をあげてくれる。もちろん、週明けにはまた引っ詰め髪になって、ボクの初歩的なミスを厳しく指導するのだけれど。

 研修医全員のレジャーとしては、ほかに食道・胃疾患グループのチーフであるO講師の家で催されるガーデンパーティがあった。O講師が毎年秋に、研修医の慰労をかねて開いてくれるもので、看護師や食道・胃疾患グループの指導医なども招かれていた。総勢は三十人を超え、バーベキューの材料や飲み物だけでも相当な量だったろうが、すべてO講師の奢りのようだった。

 もう40年以上も前のことで、記憶も曖昧だが、とにかく広い庭で、バーベキューグリルや飲み物と料理のテーブルが並び、研修医たちは存分に楽しんだ。O講師は最後に自宅を開放してくれ、酔っ払った研修医たちを相手に、春本のコレクションを見せてくれたりもした。そうかと思えば、同居していた母堂を呼び、すでに高齢だった母堂を自分の膝に載せ、研修医たちと記念写真を撮ったりした(その写真は今もボクのアルバムにある)。

 ほかに夜のレジャーとして、カラオケがあった。病院の向かいに「山茶花さざんか」という軽食堂があり(仲間内では、「やまちゃか」と呼ばれ、そのうち「チャカチャカ」になった)、よく昼食を摂りに行ったが、夜は簡易のスナックのようになり、昔ながらのカラオケがあった。映像はなく、歌詞カードを見ながら歌うタイプだ。

 この店はどういうわけか、夜は第二外科の研修医専用のようになっていて、自主当直の夜など、よく同僚と歌いに行ったが、ほかの科の研修医と会うことはめったになかった。

 さらに個人的な夫婦レジャーとして、先に書いた伊勢へのドライブのほか、10月には青木繁が「海の幸」を描いた房州布良めらの海岸に旅行した。金曜の夜に夜行で東京に行き、そこから千葉県館山たてやま市まで行って、そのあとはバスで青木の足跡を辿った。青木が身重の福田たねを伴い、4枚の戸板に焼きごてで荒々しい海景を描いた円光寺を見て(無人で当時を偲ばせるものはなかった)、布良に到着。青木らが投宿した小谷家を訪ねると、青木が「海の幸」を描いた部屋に案内してくれ、家の人が伝え聞く当時の話を教えてくれた。

 年明けの1月には、成人の日が金曜日で3連休になったので、夜行バスの往復で信州にスキーに行った。当然、帰ってきた朝から通常勤務。疲れも睡眠不足も何のそのだった。

 さらには五月の連休に、やはり夜行で金沢旅行に行った。現地でレンタカーを借り、輪島の朝市で甘エビを食べ、車で浜辺を走る千里浜ドライブウェイを楽しみ、能登半島の先端の照明が文字通りランプのみの「ランプの宿」に泊まり、翌日は見附島、兼六園、金沢城などを見て、夜行で帰るという旅行だった。

 ほかにも日帰りで、当時、神戸のポートアイランドで開かれたポートピア’81にパンダを見に行ったり、嵐山に紅葉を見に行ったり、奈良で開かれたムンク展を観に行ったり、大和川上流にサイクリニングに行ったりもした。

 遊んでばかりで、どこが過酷なのかと思うが、遊びに気合いを入れていたからこそ、これだけ遊べたのだと思う。若さと欲のなせる業だ。

 金沢から帰ったあと、ゴールデンウィーク明けに久しぶりに出勤すると、ベテラン看護師にあきれたように冷たく言われた。

「連休中、病棟に一度も顔を出さなかったのはセンセイだけよ」

「そうなんですか。すみません」

 一応、恥じ入るふりをしたが、心の中ではカエルの面にナントカだった。