[32]患者さんの依怙贔屓

 医シャも人間なので、人の好き嫌いはある。しかし、こと患者さんに関しては、好き嫌いなど持ち出してはいけないし、またそんなことをする余地もない。医シャは病気を治すことに全神経を集中しているので、患者さんに対する好き嫌いなど感じているヒマはないからだ。

 というのは建前で、医シャも経験を積むに従って気持ちに余裕ができ、よけいなこと、すなわち患者さんに対する好き嫌いを感じるのは致し方のないことである(容認しているわけではありません)。

 しかし、研修医にかぎって言えば、それこそ受け持ち医としての役割を果たすことに必死で、患者さんに対する好き嫌いなど感じる余裕はまったくない。ボクも自分の受け持ち患者さんに、好悪の情を抱いたことはなかったと断言できる。

 だが、患者さんのほうはそうでもなかったようだ。

 Oさんという食道静脈瘤の患者さんは、60代のはじめで身よりがなく、医療保険は生活保護だった。食道静脈瘤を引き起こした原因は肝硬変で、それは長年の大量飲酒によるものだった。肝硬変特有の赤ら顔で、年齢以上にやつれて見え、頭は白髪の短髪、小さな目には常に緊張と苛立ちが浮かんでいるという風貌だった。

 ボクはいつもの通り、現病歴や既往歴を聞き、診察をして、検査や手術の準備を進めた。はじめのうちは特段、Oさんとの関係も悪くはなかった。

 その少しあとに、Sさんという50代の胆石の患者さんが入院してきて、ボクが受け持ち医になった。SさんはたまたまOさんと同じ部屋になり、1つの部屋に自分の受け持ち患者さんが、2人並ぶことになった。

 Sさんは銀行の重役で、見るからに優秀そうで、ずっと陽の当たる道を歩いてきたという感じの人だった。入院の日、部屋に行くと、裕福そうな美人のお奥さんが付き添っていて、ていねいに挨拶をしてくれた。夕方には息子さんと娘さんも見舞いに来て、仲のいい家族であることがうかがえた。

 翌日も、Sさんには家族全員の見舞いがあり、奥さんは豪華な花束を買ってきて、ベッドサイドに飾ったりした。Oさんを含む同室の患者さんにも愛想よく振る舞い、部屋の雰囲気を明るくしていた。

 ところが、その翌日、夕方に部屋に行くと、Oさんがベッドの周囲にカーテンを張り巡らし、完全に周囲をシャットアウトしていた。ボクがカーテンの隙間から入って、「どうかしましたか」と聞いても、「別に」と不機嫌そうに答えるばかりで、視線を合わせようともしない。

 続いて、となりのSさんを診に行くと、こちらも妙な雰囲気だった。見舞いに来ていた奥さんが、Oさんのベッドから離れた側の丸椅子に座り、顔をしかめてボクに耳打ちした。

「そちらの患者さんに、うるさいと言われましてね」

 Sさんが眉間に皺を寄せて言い足した。

「別に騒いだわけじゃないですよ。ふつうに話していただけなんですがね」

 となりのベッドからカーテン越しに、聞こえよがしの荒っぽいため息が洩れた。

 困ったなと思ったが、妙案も浮かばなかったので、ボクは「そうですか」とだけ言って部屋をあとにした。

 翌日、指導医のM先生に呼ばれて、「Oさんが、君が患者を依怙贔屓すると、婦長に苦情を言うたそうやで」と言われた。ボクは頭に血が上り、「そんなことはぜったいありません」と反論した。実際、依怙贔屓などした覚えはなかったし、OさんにもSさんにも同じように接し、診察も説明も分け隔てなくしたつもりだった。Oさんには見舞客が1人もなく、Sさんの家族が毎日見舞いに来て、明るく話すのが不愉快だったのはわかる。だが、それでボクが依怙贔屓をしたというのは、明らかにひがみによる誤解だ。

 そう弁解すると、M先生は「ちょっと話を聞いてくる」と言って、Oさんの部屋に行った。M先生は和歌山医大を出て、阪大の第二外科に入局した人で、外様のため医局内では地位が低かった。手術の腕もさほどではなく、なんとなく存在感の薄い指導医だった。その代わり素朴で明るく、いかにも庶民派という感じだった。

 それが幸いしたのか、たまたまSさんが部屋にいなかったこともあってか、OさんはM先生に思いのたけをぶつけたようだった。

 病室からもどってきて、M先生がボクに言った。

「君の言う通り、Oさんのひがみのようやな。話を聞いて、『淋しかったんやなぁ』と慰めたら、ポロポロと涙をこぼしてた。感情の行きちがいがあったら、あとがやりにくいやろうから、受け持ちを替わるか」

 そう聞かれたが、ボクは交替を拒否した。誤解で受け持ちを替わるのは不本意だったからだ。

 そのまま手術を終え、退院するまでOさんの担当を続けたが、最後までボクは心を開くことはできなかった。もちろん、Oさんも同様だ。

 退院したあと、Oさんが外来診察を受けに来て、M先生に挨拶をしているところを偶然見かけた。ボクには見せたことのない人なつこい笑顔で、お辞儀をしていた。

 患者さんの心をつかむというのはこういうことか。そう思いつつも、ボクには遠い道程のように感じざるを得なかった。

[31]ヤクザの指詰め処置

 アルバイトで外科のクリニックや病院に行くと、たまに指詰めをしたヤクザが、傷の処置をしてもらいにくる。さほど珍しいことではなく、ボクは研修医の前後を含め、計4回経験した。

 ヤクザといっても相手は指詰めの直後で、凄む余裕もないし、こちらは治療を頼まれる側なので、さして恐れることも緊張することもなかった。

 傷の処置の仕方は、オーベンのK先生から教わっていた。

 指詰めの傷は、断面に骨が出ているので、そのままでは皮膚が縫えない。縫い代を作るために、骨を内側に削らなければならない。だからヤクザの患者さんには、まずそのことを説明する。

「骨を削って縫うので、今の状態よりも指は少し短くなりますよ」

 こう言っておかないと、縫ったあとで、切った長さより短くなったとヤクザが怒る危険性があるのだ。

 処置の最初は麻酔である。指の背側と腹側には、左右、計4本の神経が走っている。これを目指して、指の付け根に極細の針で局所麻酔薬を注射すると、指は完全に無感覚になり、切ろうが縫おうが、爪を剝ごうが、痛みを感じなくなる。

 こうしておいて、骨切り鋏で断面に露出している骨を、1cmほどかじり取るように削る。すると肉と皮膚に余裕ができて、縫えるようになる。が、そのままでは形よく縫えないので、“魚口状縫合”にするため、鋏で背側と腹側の皮膚を半円形に切る。そうすると、上下を縫い合わせたとき、魚の口のように先端が丸く閉じられた形になるのである。

 このときもコツがあって、自分の指を触ると分かるが、指は背側と腹側で骨と皮膚の厚みがちがう。指の背側のほうが肉が薄い。だから、背側と腹側を同じ半円形に切ると、縫い目が背側に偏ってしまう。断面の中央に縫い目がくるようにする(そのほうが恰好がいい)ためには、背側の半円を長めにするのがコツである。

 1例目の処置では、縫い目が指の背に偏ってしまったので、そのヤクザさんには申し訳なかったが、2例目からは形よく縫うことができた。医療はやはり経験がモノをいうのである。

(だから多くの人はベテランの治療を求めるが、新米の医シャの治療を受けてくれる患者さんがいないと、次のベテランが育たない。自分だけはベテランの医シャに診てもらいたいと求める気持ちには、練習はほかの患者ですませてくれというエゴイズムが潜んでいることを認識すべきだろう)

 閑話休題。

 指詰めをするのは、たいていヤクザだが、3例目は一般の人だった。外科医になってからの話だが、当直をしていると、夜中に指を詰めた人が、何人かの女性が付き添われてやってきた。どう見てもヤクザでないので、職業を聞くと、板前とのことだった。50代で丸刈りの実直そうな男性だった。ただ、顔色は真っ青で、表情は硬直し、失神寸前のように見えた。

 一応、型どおりの説明(指が今よりも少し短くなる云々)をしたが、血走った目でうなずきもせず、局所麻酔をして処置をする間も、まったくの無反応だった。どういう事情で指を詰めるハメになったのかは聞かなかったが、そのショックの大きさと、深い悲しみがひしひしと伝わってきた。

 翌日、消毒とガーゼ交換のために外来に来てもらうと、打って変わって愛想笑いなどもし、ふつうの患者さんになっていて、前夜と同一人物とは思えなかった。それくらい指詰めの当座は、精神的な衝撃が大きかったのだろう。

 4例目のヤクザは、アルバイトで外来診察をしていたクリニックに、夕方、まだ明るいうちにひとりでやってきた。

 3例目の一般人はもちろん、先の2例も舎弟か兄貴分らしい人が付き添っていたが、4例目の若いヤクザには世話をする者がいなかった。

 傷を診ると、切断したのは左手の薬指だった。小指は左右ともすでに詰めてあり、短くなっていた。つまりこの若いヤクザは、3度目の失態を演じたということになる。

 型どおりの説明をして(すでに2回も経験しているから、その必要はなかったかもしれないが)、局所麻酔をしようとうすると、若いヤクザは思い詰めたような顔でつぶやいた。

「次はもう、ぜったいにヘタ打たへん」

 ボクは黙ってうなずいたが、胸の内で思った。

 ──いやいや、悪いことは言わないから、足を洗ったほうがいい。アンタはこの業界には向いてないよ。

[30]はじめての看取り

 研修医はヒヨコ医シャなので、いろいろはじめて経験することが多い。

 その最たるものは患者さんの看取りだろう。研修医にはまだ一般人の感覚が残っているので、人の死には大きな衝撃を受ける。

 先に述べたように、大学病院は基本的に治る見込みのある患者さんを入院させるので、研修医の受け持ち患者さんが亡くなることは滅多になかった。従って、研修医が看取りに遭遇するのは、だいたいアルバイトで行く当直先の病院だった。

 はじめて患者さんを看取るときは、だれでも緊張する。そもそもどんなふうに看取ったらいいのかがわからない。オーベンのK先生は、ボクにこう教えてくれた。

「看取りのコツは、慌てず、騒がず、落ち着かずや」

 慌てると新米であることがバレるし、騒ぐと医療ミスを疑われかねないが、あまり落ち着いていると、患者さんを見捨てているように思われるから、適度な緊迫感を持てというのである。

 臨終の宣告は、いわゆる“死の三徴候”、すなわち呼吸停止、心停止、瞳孔散大を確認して行うが、これも早まるなと教えられた。

 死ぬとき、息は突然止まるのではなく、下顎かがく呼吸といって、下顎したあごを突き上げるような呼吸を繰り返し、それが次第に間遠になって、完全に止まる。そこで「ご臨終です」と告げるのだが、ときに思いがけない最後のひと呼吸がやってくることがある。すると家族が、「あーっ、まだ生きてる」と声をあげるなどして混乱する。だから、下顎呼吸が終ったと思っても、しばらく待って、もうぜったいに息をしないことが確実になってから、臨終を告げろというのだ。

 心電図も同じで、死ぬ間際には波形が乱れ、波が間遠になってやがてフラットになる。そこで「ご臨終です」と告げると、最後のひと波がピクンと現れたりして、また家族が、「あーっ、まだ・・・!」となるので、臨終を告げたらすぐに心電計の電源を切れと教わった。

 つまり、医者の告げる臨終の時刻は、実際の死より少し遅かったり早かったりするのである。

 そうやって、6月中に看取りの作法を教えてもらったが、ボクはなかなか患者の看取りに巡り会わなかった。

 研修医の中には、7月早々に当直先の病院で看取りをした者もいて、翌朝、大学病院に来ると、そのときのようすを深刻そうに語ったりした。人の死の話だから、聞くほうも自ずと厳粛な雰囲気になる。看取りを経験すると、なんとなく医シャとして箔がついたように感じられ、場数を踏むと余裕もでき、未経験者より優位に立つ雰囲気があった。

 ボクがはじめて看取りを経験したのは、研修も後半に入った初冬のころだった。代理を頼まれて行った病院で、宵の口に看護師から電話がかかってきて、患者さんの急変を告げられた。いよいよボクも看取りをするのかと、武者震いをする思いで、白衣を整え、K先生に教わった手順を思い浮かべながら、早足で病室に向かった。

 ふつう、看取りをするのは個室がほとんどだ。大部屋でとなりに患者さんがいるところで人が死ぬのは好ましくないからだ。ところが、告げられた病室は個室ではなく、大部屋だった。まちがいではないかと思いつつ、扉を開けると、ベテランの看護師が神妙な顔で、ベッドの横に控えていた。患者さんは六十代の女性で、がんの末期だったが、でっぷりした体型で、赤ら顔に縮れた毛が枕の両側に広がっていた。

「ご家族は」と看護師に聞くと、黙って首を振る。カルテを見ると、医療保険は生活保護だった。それで個室に移せなかったのだ。

 患者さんはすでに下顎呼吸で、それもほどなく止まった。K先生から教わった作法はすべて家族に向けてのものだったので、身寄りもなくたったひとりで死んでいくこの患者さんには、パフォーマンスのようなことは必要なかった。それでも、ボクは型通りに聴診器を胸に当て、ペンライトで瞳孔を照らして、臨終を告げた。

「午後8☓分。御臨終です。力及びませんで」

 いったいだれに向けて告げたのかわからなかったが、今一度、患者さんを見て、ボクは複雑な思いに駆られた。

 この人はいったいどんな人生を送ってきたのか。だれと、どこで、どんなふうにして、生きてきたのだろう。それが最後は生活保護になって、家族もおらず、たったひとりで、たまたま居合わせた新米の研修医に看取られた。あまりにも淋しい人生の終りではなかったか。

「あとはやっておきますから」

 ベテラン看護師にそう言われて、ボクは我に返り、当直室に引き揚げた。

 その後、外科医となり、後年は高齢者医療の現場に入って、多くの患者さんを看取った。顔を覚えている人はほとんどいない。しかし、最初に看取ったあの女性の顔だけは、今もありありと思い出せる。