[41]自費出版本

 画家になりたいなら芸大、音楽家になりたいなら音大、芸人になりたいなら吉本の養成所と、それなりのコースがあるが、小説家になりたいならどうすればいいのか。考えてもわからなかった。大阪には「大阪文学学校」というのもあったが、ネットもない時代で、情報もなく、ずっと孤軍奮闘、五里霧中の状態だった。

 学生時代には、文芸雑誌の新人賞に応募したこともあったが、純文学系と大衆小説誌のちがいもわかっておらず、一次選考にさえ引っかからなかったので、早々にあきらめていた。

 そんなとき、大阪梅田の紀伊國屋本店の奥に、「自費出版コーナー」というのを見つけ、学生の小遣いでもまかなえそうだったので、大学6年の夏に、『PAUL』というタイトルで短編集を100冊作った。B6版(週刊誌の半分)で、86ページ。中身は学生時代に書きためた短編6作。タイトルの由来は、敬愛する画家のゴーギャンから拝借した。

 表紙は19世紀にイギリスで出ていた挿絵入り文芸誌「The Yellow Book」を模して、黄色字に黒一色のデザインにした。木版で何かをつかもうとする両手を彫り、周囲にはゴーギャンばりの紋様を入れた。

 大学に合格したあと、ボクは最初の5年間は勉強そっちのけで、小説の習作と、サッカー、映画にデート、飲み会、一人旅などに明け暮れ、気楽な大学時代を謳歌していた。5回生の終わりには、1カ月ほどヨーロッパを放浪したりしていたので、6回生になったときには、学業が同級生に比べそうとう遅れていた。そのため、卒業試験と翌年の国家試験に備えて、猛勉強をしなければならなかった。

 記憶の中では、4月から死にものぐるいで勉強したつもりだったが、7月に『PAUL』を出しているところを見ると、案外、そのころまでは片手間だったのかもしれない(夏休み以降は、文字通り死にものぐるいだったはずだけれど)。

 自費出版コーナーでは、本の販売もしてくれ、1700円で30冊ほど置いてもらったら、間もなく完売した。続けていれば、ひょっとしてプロの編集者の目に留まり、デビューということもあり得るのではないか。そんな思いで、第二集も出そうと考えた。

 しかし、大学卒業後は、青木繁を主人公にした長編にかかりきりで、研修医の仕事も忙しく、新たに短編を用意するのがむずかしかった。そこで、新作は2編のみにして、『PAUL』に収録できなかった学生時代の短編6つを、少し手直しして入れることにした。前作と同じく、B6版で98ページ。タイトルの『AUBREY』は、「The Yellow Book」の表紙を描いていた挿絵画家、ビアズレーから取った。表紙もビアズレーふうの黒の目立つ極端な遠近法のイラストにした。

 出したのは年末で、前作同様、自費出版コーナーに置いてもらうと、30冊が割と早くに売れた。しかし、当然ながら、編集者や出版社からの連絡はなかった。

 ここであきらめてはならじと、麻酔科の研修医になった翌年にも第三集を出した。同じ判型で、短編6作、112ページ。タイトルの『FRANZ』は、カフカから頂戴した。タイトルに人名をつけたのは、作品集を我が子のように思っていたからだが、そんな幼稚なことをしていたから、なかなか芽が出なかったのだと今では思う。

 第3集の表紙のイラストは、ヴィスコンティの『ルードヴィヒ』の一場面を、半分自画像ふうにアレンジした。

 あとがきにはこうある。

『もし、このまま作品集を出していくとすれば、次からは長い暗黒時代にはいるでしょう。四集、五集を出していくことを考えるとぞっとする。完全な孤独のままで、そのような惨めさに、人は耐えて行けるものでしょうか?』

 暗闇の中をひとりで手探りしているのがよくわかる文章で、今読んでも痛々しい思いに駆られる。

 あとがきには、続けて自費出版本を出すつもりのように書いているが、実際には第3集で終わった。作品集を買ってくれた人が手紙をくれて、もし小説家になりたいと思っているのなら、同人雑誌に入りなさいと、アドバイスをくれたからだ。丁寧にいくつかの同人雑誌の主宰者名と連絡先まで書いてくれていた。

 そこでボクは、地元の堺に発行所がある「文学地帯」という同人雑誌に加入を申し込み、作品を発表するようになった。さらに「VIKING」という芥川賞や直木賞の候補者がゴロゴロいる雑誌に移り(山崎豊子、高橋和巳、津本陽などが元同人)、「文學界」や「新潮」などの商業雑誌の新人賞にも応募し、計4回、最終候補にまでなったけれど、受賞には至らなかった。候補作のひとつは「新潮」に掲載されたけれど、それでおしまい。

 そのあと、48歳のデビューまで、長い長い暗中模索の日々が続くのだった。

[40]今は昔のこぼれ話・2

・保険本人自己負担ゼロ。

 今からはとても考えられないが、ボクが研修医になった当時は、健康保険(現在の職域保険)に加入している本人は、医療費の自己負担がゼロだった(家族はたしか1割負担、国保は本人家族とも1割負担)。

 だから、自分の薬が必要になったときは、受け持ちの保険本人の患者さんに処方して、処方箋に「主治医渡し」と書いておくと、看護師がこちらに渡してくれた。

 風邪をひいたときなど、PL顆粒やダンリッチなどを処方したが、自分も保険本人なので、別に医療費をごまかしているわけではない(因みに、ダンリッチは脳出血の危険ありとして、後に製造中止になった。眠気の副作用はあったけれど、鼻水止めに抜群の効果があったので残念だった)。

 国民皆保険の達成は1961年で、1973年から70歳以上の自己負担がゼロになり、病院の待合室が高齢者の社交場となって、病院に来ないと、「あの人、どっか悪いんとちゃうか」というような冗談が出るほどになって、医療費を押し上げた。

 保険本人の自己負担ゼロも同様で、1984年からは本人でも自己負担1割になった。それまでタダだったものが、1割負担になって、世間の反発は大きかったが、1割では間に合わず、その後、2割、3割となったのは周知の通り。タダほど高くつくものはないということか。

・二重カルテ。

 第二外科の医局に留学していたマレーシア国籍のR先生が、咽頭がんになって、診断がついたときにはすでに肺に転移していて、末期の状態だった。

 当時は本人にがんの告知をしない時代で、R先生はがんであることは自覚していたが、肺に転移していることは告知されていなかった。R先生は第二外科の病棟に入院し、指導医に信頼の厚い研修医のYが受け持ちになった。抗がん剤の治療がはじまったが、効果はなく、症状は増悪する一方だった。R先生は詰め所に来て、自分のカルテを見るので、病状の悪化を隠すため、二重カルテが作られた。

 検討会で、R先生の先輩に当たる指導医が、R先生の胸部X線写真を示して、「どんどん悪くなってる。どうしたものか」と、悲愴な顔をしていた。

 Yに「どうや、本人は気づいてないか」と聞き、Yは「まだ大丈夫みたいです」と答えたが、バレるのは時間の問題のようだった。

 その後、R先生は亡くなり、Yは葬儀に出席した。

 二重カルテまで作って、患者を欺くのは、思いやりなのか、欺瞞なのか。いずれにせよ、今では考えられないことである。

・医療ミス。

 ボクの受け持ち患者さんではなかったが、乳がんの疑いと診断された女性の手術で、乳房のしこりががんかどうかを、麻酔をかけてから確認したケースがあった。通常は手術の前に調べるのだが、たぶん、がんの疑いは濃厚なものの、はっきりしなかったのだろう。それで全身麻酔をかけて、乳房切除術の用意をしてから、念のためにしこりだけを摘出して、病理検査に出した。

 たまたまボクは横で見学していたのだが、検査の結果が出るまで、執刀医たちはすることがない。5分、10分、15分と時間が流れても、結果はなかなか返ってこなかった。

 しびれを切らせた執刀医が、「たぶん、がんにまちがいないやろ。切除をはじめよう」と、女性の胸の切除する範囲に大きくメスを入れた。

 その直後に病理部から連絡が来て、「良性」との判定が告げられた。

 慌てた執刀医は、「そんなはずないやろ」と、病理部に問い合わせたが、判定は覆らなかった。患者さんはまだ20歳代だったはずだ。その白い胸に、紡錘形の大きな傷を負わせてしまったのだ。明らかな医療ミスで、申し開きのしようもないが、執刀医はせめてもの償いに、メスで切り裂いた皮膚を、極細の糸でふだんの何倍も丁寧に縫合していた。それでも明瞭な傷跡が残ることは避けられない。

 その後、患者さんと家族にどう説明したのかはわからないが、少なくとも訴訟になったという話は聞かなかった。示談になったのかもしれないが、これも今では考えられないケースだ。

 当時、大学病院の権威は絶大で、医療ミスがあっても、患者さん側がごまかされたり、泣き寝入りさせられたりすることも少なくなかったのではないか。その後、各地に大学病院で、患者の取りちがえや、臓器の切りまちがいなどという単純ミスが発覚し、権威が地に落ちて訴訟も増えた。

 それがいいのか悪いのかわからないが、権威はやはり怪しいと思ったほうがいいようだ。

[39]今は昔のこぼれ話・1

 ボクが研修医だったのは40年以上も前なので、今ではなくなってしまったもの多い。いくつか思い出してみよう。

・アンプルカッター。

 これは砂を固めて作ったハート型の小さな器具で、薬のアンプルを切るときに使っていた。

 現在のアンプルは、くびれの部分にはじめから切れ目がつけられていて、丸印のところで簡単に折れるが、当時のアンプルには切れ目がなかった。

 だから、その切れ目をつけるため、ハート型のへこんだ箇所をくびれに当てて、ガリガリとこすった。それで一気に曲げるとポキッと折れるのだが、切れ目が浅いとなかなか折れず、力を入れすぎたり、切れ目が深すぎたりすると、アンプルが割れて、最悪、手に怪我をすることもあった。

 特に20mlの大きなアンプルは要注意で、ある研修医は指に深い傷を負って、指導医に縫合してもらっていた。

・エアー針。

 今の点滴はプラスチック製のソフトバッグで、点滴ルートの針は、口のゴム栓に刺すだけになっているが、ボクが研修医のころは、ほとんどの点滴がガラス瓶で、ルートの針を刺すだけでは陰圧になって滴下しないので、エアー針をゴム栓の横に刺さなければならなかった。

 この方法だと、液の滴下に従って、泡が点滴内に入っていく。空気中の埃などが液に溶ける危険性があるので、エアー針には微細なフィルターがついていた。ところが、このフィルターに点滴の液が逆流してついてしまうと、空気が通らなくなって、点滴が落ちなくなる。すると、針の先で血が固まって詰まるので、刺し直しになり、患者さんに痛い思いをさせることになった。

 それだけでなく、ガラス瓶は重いし落とすと割れるので(たまに手を滑らせて、廊下で点滴瓶を割る研修医もいた)、途中からプラスチックボトルが増えてきた。これもエアー針は必要だが、プラスチックなので、ボディに刺すことができ、空気が液内を通過しないのが利点だった。それでも、液面に外気が触れるので、まだ完璧ではなかった。

 たまにエアー針を刺し忘れると、途中で滴下しなくなり、針が詰まる。ある看護師は、巡回でエアー針のない点滴を見つけ、急いで刺してことなきを得たあと、ボクにしみじみとこう言った。

「わたしたち、何をやってるんだろと思ってましたけど、やっぱりわたしたちの仕事は意味があるんですね」

 勤務2年目の看護師で、大学病院での仕事に疑問を抱いていたようだ。

 エアー針が不要なソフトバッグは、40年前でも作ることはできただろうに、点滴は瓶という固定観念が邪魔をして、開発が遅れたのだろう。

・注射器での採血。

 採血は今は真空採血管を使うが、ボクが研修医のころはディスポーザルの注射器を使っていた。駆血帯もただのゴム管で、患者さんの腕に巻いたあと、先を折り曲げてはさんで留めていた(留め金のついた駆血帯も少しはあった)。

 注射器で採血を終えると、採血管に血液を移すときや、針にキャップをかぶせるときに、針刺し事故の危険があったが、真空採血管では、血管に針を刺したまま、採血管をホルダーに差し込んで採血し、すんだら針はキャップをせず、専用の針捨て容器に落とし込むので、針刺し事故の危険性がぐっと減った。

 しかし、血管を刺す手順は同じなので、採血がしやすくなったわけではないだろう。

・剃毛。

 手術をする部位は、皮膚の感染を防ぐため、手術前に産毛、腋毛、陰毛などを、カミソリで徹底的に剃るのがふつうだった。今は細かな傷がかえって感染を起こしやすいとの理由で、カミソリは勧められないらしい。

 ボクが研修医だったとき、看護師から男性患者さんの陰毛は、研修医が剃ってほしいという要望が出た。それはもっともだということになり、看護師長の鶴の一声で、指導医たちも受け入れた。

ボクも剃らされたが、使うのは長い柄のついた理髪師用のカミソリで、扱いに苦労した。問題は陰嚢の表面で、セッケンをつけて剃ろうとすると、陰嚢の皮膚は不随意に動き、しかも毛根は鳥肌のようにブツブツになっているので、滑らかに剃れない。それでも毛を残したらいけないと思うので、悪戦苦闘して剃るうちに、あちこち切ってしまい、陰嚢が血だらけになった。

 ボクだけでなく、何人かの研修が同じ失態を演じたので、ふたたび看護師長の鶴の一声で、また看護師が剃るようになった。看護師たちの卓抜な技術に感服したが、陰嚢を血だらけにした患者さんには、誠に申し訳なかった。