ヨーロッパ旅行に出かける前夜、翌朝の早い出発に備えて、午後10時すぎに就寝すると、廊下で電話のベルがけたたましく鳴った。
今ごろだれかと受話器を取ると、前に麻酔科を「外科医の奴隷」と言った指導医のK先生の声が飛び出した。
「おまえのヘパトーマ(肝臓がん)のKさん、39度近い熱を出してるぞ。今すぐ診に来いとは言わんが、明日、朝いちばんで病院に来い」
えーっと思ったが、どうしようもない。とにかく、ありのままを口にした。
「すみません。ボク、明日からヨーロッパ旅行に行く予定なんです」
アホか、キャンセルしろと言われたら、従わなければならない。神仏に祈る気持ちで返答を待つと、K先生はしばらく呻吟したあと、舌打ちとともにこう言った。
「ほんならしゃあないな」
あとで聞くと、K先生は自分も沖縄旅行に行く予定があったらしく、自分だけ休暇を取るのはまずいと思ったようだ。
いずれにせよ、その一言で許可をもらったつもりになり、翌朝、ボクは妻とともにヨーロッパ旅行に出発した。今回はツアーに入らず、現地でホテルや切符を自分で手配するオリジナルの旅行だ。
南回りだったので、まずタイのバンコックで、トランジットの間に空港近くの寺院を訪ね、翌朝、早くに最初の目的地、デンマークのコペンハーゲンに着いた。レンタル自転車に乗り、人魚姫の像や市庁舎、ローゼンボー城などを見て、感じのよい安ホテルに泊まり、2日目はアマリエンボー宮殿で黒い毛皮の帽子をかぶった衛兵の交代式を見たあと、チボリ公園に行って閉園ギリギリまで遊び、夜はそのまま夜行列車に乗って、次の目的地であるノルウェーのオスロに向かった。
オスロではムンク美術館、フログネル公園、ヴィーゲラン博物館などを見て、いつまでたっても日の暮れない公園を散歩し、ほぼ白夜に近い夜を楽しんだ。
翌朝は、早朝の飛行機でオランダのアムステルダムに飛び、妻が楽しみにしていたフロリアーデの会場に行った。フロリアーデは10年に1度催されるオランダの花博で、チューリップはもちろん、世界中から珍しい花、豪華な花が集められ、会場には人工池が作られ、大温室もあり、図鑑でも見たことのないような花が満ちあふれていた。芝生の広場もあって、そこに寝転ぶと、午後8時をすぎても昼間のような明るさで、まるで天国に来て時間が止まっているかのような気分になった。
夜遅くにアムステルダムの運河を船で巡るナイトツアーに参加し、翌日も午前中にフロリアーデに行ったあと、午後からはゴッホ美術館とアンネ・フランク記念館(実際の隠れ家)を訪ねて、夜行列車でふたたびコペンハーゲンにもどった。
コペンハーゲンでは、ストロイエ(歩行者天国の商店通り)で買い物をしたあと、国立美術館でレンブラントやマチス、モジリアニなどを観て、夕方からは、父がコペンハーゲンに留学していたときに親しかったK先生(日本人)宅にお邪魔して、夕食をご馳走になった。
ホテルにもどり、翌日は買い物と博物館巡りをして空港へ。盛りだくさんのフリーツアーを楽しんで帰国の途に就いた。
自宅には午後8時すぎに帰った。妻と2人、旅の余韻に浸りながら、気になっていたKさんの容態を聞こうと、研修医の中でいちばん気心の知れたOに電話をした。すると、Oは受話器の向こうでかすかに笑い、こう言った。
「ア・リトル・バッド・ニュース」
Kさんはその後、重症の肺炎になって、ICU(集中治療室)に入ったというのだ。当然、ネーベンのN君では対応できず、仕方なく同じオーベンのYが代理で担当してくれたらしい。
患者が重傷化しているのに旅行に行ったのも言語道断だが、留守中の代理を頼まずに行ったことが大きな非難を呼んだ。1年前のオーベンたちは、きちんと代理を頼んでから海外旅行に行っていたのだ。しかし、ボクはそれを知らなかったので、N君にすべてを任せて行ってしまった。
旅行から帰った翌朝、午前7時からはじまるICUの申し送りに参加すべく、30分前に出勤すると、Kさんはすでに回復して、もとの病室にもどっていた。
「長い間、留守をしてすみませんでした」と謝ると、Kさんはやつれた顔で、「この1週間のことはほとんど覚えてません」と言った。その目はすでに、ボクを受け持ち医とは見ていなかった。
指導医にはどれほど怒られるかと覚悟していたが、どの指導医もボクを見て、ため息をつくばかりで、叱責らしい叱責はなかった。N君には申し訳なかったので、当直を代わりにしたり、病棟の雑用を手伝ったりした。
外科研修の最後の日、看護師長に挨拶に行くと、「もう少しきちんとした先生だと思ってたけどね」と、完全に見捨てた顔であきれられ、それは少しばかりつらかった。