[19]多忙で恩知らずに

 8月に入ると、受け持ちの患者さんが増えて多忙になった。

 定期的に開かれるカンファレンスや回診のほか、患者さんごとに手術前の検査や準備、本番の手術とそのあとの管理や家族説明などがいろいろあって、とても定時には帰れず、それどころか大学病院に泊まり込みでないと仕事が片付かない日も増えてきた。

 にもかかわらず、ボクの頭の中は、相変わらず小説の執筆が重要で、新婚生活ももちろん大事で、病院の仕事に全力投球できていなかった。ほかの研修医たちは、病院の仕事に全精力を注ぎ込んでいたが、ボクは均等配分していたとしても、傍目には仕事1/3、新婚生活2/3(小説のことは秘密にしていたので)に見えたかもしれない。新婚ボケの落ちこぼれと思われたのも致し方ない。それでも、ギリギリ最低限のことはしていたから、面と向かって叱責されることはなかったが、指導医の間では評価はたぶん最悪だった。

 特に肝臓病をメインにする肝胆膵疾患のグループには評判が悪かった。7月のはじめに、エンボリゼーションで腫瘍を壊死させた肝臓がんのSさんの手術が、いよいよ近づいてきて、講師のO先生(ボクにいじめのような患者観察を命じた人)をはじめ、グループの指導医たちはかなり不安に思っていたようだ。

 というのも、エンボリゼーションをしたSさんの手術は、いわば新療法で、教授をはじめ医局全体の注目度が高かったからだ。Sさんの手術は肝臓の約2/3を切除する大がかりなもので、術前準備にも術後管理にも高度なレベルが要求される。ダメ研修医のボクが、それを問題なくやりおおせるかどうか心配だったのだろう。

 手術の少し前、O講師は病棟の詰所に来て、Sさんのカルテをチェックし、ボクに「君はあんまりカルテを書かんな」と言った。ほんとうは怒鳴りつけたかったのだろうが、それでさらにやる気をなくされると困るので、遠まわしに発破をかけたようだ。

 ボクが例によって「はあ」と生返事で応えると、O講師はムッとした顔で、それ以上何も言わずに引き上げていった。

 手術の当日は、研修医が止血の結紮に手間取ると出血量が多くなるという理由で、ボクは肝臓の切除がはじまると結紮をさせてもらえず、ずっと術野を確保するためのこう引きをやらされた。

 手術は無事に終ったが、術後管理が大変で、6日間、病院に泊まり続けでいろいろな処置に忙殺された。

 1週間後、ホルマリン固定したSさんの肝臓を切開して、エンボリゼーションの効果を見る「切り出し」が、医局の研究室で行われることになった。打ち合わせのとき、指導医たちはやる気のないボクを完全に無視したまま話を進め、O講師も「君は来なくていいから」と言った。すると、グループの若手だったM先生が、「それはかわいそうやろ」と割って入り、ボクも切り出しに呼んでもらえることになった。

 このとき、M先生はアメリカの留学から帰国したばかりで、大学病院の事情がよくわかっていなかったのかもしれない。だから、ボクがダメ研修医だったことにも気づいていなかったようだ。

 この手術の少し前にも、別の患者さんにシャント手術(血漿交換のために、動脈と静脈をつなぐ手術)をするとき、M先生がボクの指導医になって、ほとんどの処置をさせてくれた。そのときはありがたくて、かなりやる気が出た。

 切り出しに呼んでくれたM先生の温情には感謝すべきだったが、ボクは小説に気持ちが向いていて、外科医として評価されたいという思いもなかったので、どちらかと言うと有難迷惑だった。今から思うと、恩知らずもいいところだが、切り出しも熱心に見ることなく、終ったらすぐに病棟に引き上げた。せっかくの機会を与えてもらったのに、M先生には申し訳ないことをしたと思うが、当時はそんな配慮もできなかった。

 その後、M先生は第二外科の教授になり、さらに日本外科学会や日本医学会の会長などを歴任する大物になった。ボクがせっかくの親切を無にしたことは、たぶん覚えていないだろう。

[18]夏休み一番乗り

 研修医にも夏休みが2日あり、指導医から順に休むようにというお達しがあった。

 本格的な研修は7月にはじまったばかりだったので、熱心な研修医たちはなかなか休みを取ろうとしなかった。やる気がないと見なされることを警戒したのかもしれない。ボクはそういうことは気にしないので、先頭を切って7月の後半に休むことにした。月曜と火曜にしたのは、日曜と合わせて3連休にして、妻とドライブ旅行に行こうと思ったからだ(当時は土曜日も勤務があった)。

 日曜の早朝、午前4時前に出発して、まだ明けやらぬ西名阪道を東へ向かった。行き先は三重県志摩半島の御座。ここはボクの母方の祖母の故郷で、子どものころから毎年、夏休みに出かけていた。

 日の出を見ながら気持ちよくドライブして、鳥羽からパールロードを走り、「日本の灯台50選」にも入っている大王崎の灯台を見て、英虞湾を抱える細い半島の先端に向かった。御座に着いたのは、午前9時ごろだった。

 御座には白良浜という海岸があり、文字通り、砂時計に入れたくなるほど細かくて白い砂の浜辺が広がっている。海の家やパドルボートを貸す店などもあり、海水浴場として賑わっていた。

 余談だが、ボクが子どものころ、堤防の内側に掘っ立て小屋のような簡易トイレがあった。小学5年生のとき、個室に入ると後ろの板壁に小指ほどの節穴が開いているのに気づいた。のぞくと、となりの個室の金隠しがこちら向きにあるのが見えた。

 どういうことか。

 考えるまでもなく、となりに女の人が入ったら、こちらに向いて水着を下ろすということだ。ボクは心臓が胸板を痛いほど打つのを感じながら、のぞき穴に顔をつけて息を殺した。しばらくすると、30歳くらいの女性が入ってきて、何の恥じらいもなく緑色の水着を下げた。板塀越しに見たそれは、思わず後ろにのけぞりたくなるような強烈なモノだった。今もその映像は鮮明に覚えている(白い腹部と濃い陰毛が見えただけですが)

 その経験は、約50年後、短編小説のアイデアを捻り出そうと考えあぐねていたとき、ふいによみがえり、「のぞき穴」という作品のモチーフになった(小説では女性の自慰を目撃したり、のぞきがバレてつかまりそうなったりしますが、それはフィクション)。

 閑話休題。

  御座に着いたあと、民宿に車を置いて、さっそく妻と2人で泳ぎに出かけた。件のトイレがまだあるかと、密かに期待したけれど、幸か不幸かトイレはプレハブに変わっていた。

 ボクたちは、まるで母親の葬儀のあとに海でたわむれたムルソーとマリイのように、真夏の太陽の下で休日を満喫した。海の中から太陽を見上げたり、パラソルを立てて昼寝をしたり、岩場でシュノーケリングをしたり、砂の城を作ったり、病院のことはすっかり忘れて楽しんだ。

 祖母は数年前に他界していたので、夕方、その空き家を見に行き、夕食のあとは浜辺にもどって花火をして、妻と2人、星空の下で踊った。

 次の日も泳いだり、弘法大師が開いたという爪切り不動尊に参ったり、夜にはまた花火をしたりして、楽しくすごした。

 3日目は早朝に民宿を出て、伊勢神宮に寄って、午前9時半ごろ帰宅した。一応、病院に電話をして、問題があれば出勤するつもりだったが、代理を頼んでいたのんきな同僚のOにようすを聞くと、異常なしとのことだったので、翌日からの勤務に備え、家でゆっくりした。

 学生のころは2カ月近くあった夏休みが、たったの2日になってしまい、がっかりだった。それでも、短いなりに思い切り楽しんだ。しかし、これからずっと短い夏休みが続くかと思うと、気持ちが沈んだ。

 そのころ、ボクの頭にあるのは自分のことだけで、休んでいる間、患者さんが病院で不安な時間をすごしていることなど、想像もしなかった。医療者としての自覚ゼロ。研修医としての向上心も皆無。何を考えているのかわからないヤツ。まわりから見ると、まさに「異邦人」のようだったかもしれない。

[17]秘かな執筆活動

 研修医になったら、医師としての研修に集中すべし。言わずもがなだが、ボクはずっと小説に気が向いていたから、病院で居残りなどしているとき、指導医や同僚の目を盗んで、空いているカンファレンスルームなどで小説の原稿を書いていた。空き部屋がないときは、屋上ロビーの卓球台の上で書いたりもした。

 当時はパソコンはもちろん、ワープロもないので、原稿用紙に手書きだった。使っていたのはコクヨのB550枚綴りで、表紙も枠線もグリーンのものだ。yahooGoogleもないので、手持ちの資料だけが頼りだった。

 原稿はもちろん自宅でも書いたし、当直のアルバイト先でも書いた。夜の当直室はだれも来ないので、病棟や外来の呼び出しがなければ、執筆には好都合だった。そこで多ければ78枚、少ないときでも23枚、歯を食いしばるようにしてマス目を埋めていた。

 そのころ取り組んでいたのは、画家の青木繁をモデルにした長編である。きっかけは学生時代に京都の展覧会で、名作「海の幸」を見て、ある発見をしたことだった。

 もともとボクは青木繁の絵よりも、その強烈な人生に惹かれていた。芸術に揺るぎない信念を持ち、傲岸不遜で、他人の絵に勝手に筆を入れ、「よくなっただろう、感謝しろ」とうそぶいたりしていた。東京美術学校の在学中に、第1回の白馬賞を受賞し、続いて「海の幸」で一躍、画壇の風雲児となったが、自信作の「わだつみのいろこの宮」に屈辱的な評価を下され、それに反発して流浪の身になり、画壇と世間を呪詛しながら、28歳で結核のため亡くなった。

「海の幸」は、まるで神話の世界から抜け出たような全裸の猟師が10人、2列になって巨大な鮫を担いで歩く勇壮な絵だ。中央手前の漁師は胸を張り、全身に太陽を浴びて、のんきとも見える充足した表情で銛を担いでいる。ほかの漁師とは異なる繊細なタッチで、全身が光り輝いている。

 もう1人、異様な印象を与えるのは、奥の列からこちらに視線を向ける白い顔だ。身体にはペニスらしき影も描かれているのに、明らかに女性の顔だ。モデルは青木の恋人、福田たねである。

 もともとこの絵が白馬展に出品されたときには、別の顔が描かれていた。たねの顔と手前中央の漁師の全身は、作品が完成したあとに描き加えられたものである。なぜ青木はそんな加筆をしたのか。

 当時、青木は画壇で注目され、たねの懐妊もあり、自らの将来に大きな期待を抱いていたはずだ。青木がこの絵に賭ける意気込みも、そうとうなものだったろう。

 京都の展覧会で実作を目にして、異様な雰囲気を感じて凝視するうちに、ボクは思わず声をあげそうになった。手前中央の猟師と、たねの顔をした奥の猟師が、2人で1尾の鮫を担いでいるのだ。2列の行列で、手前と奥で斜めに担ぐのは明らかに不自然だ。

 青木の絵は、ときに全体の構図が優先され、細かな位置関係や遠近法が無視されることが少なくない。「わだつみのいろこの宮」でも、山幸彦と豊玉姫が顔は接近しながら、足元には距離があるし、「大穴牟知命」でも、キサガイヒメの乳房の位置がおかしい。

 青木は勢いに任せて「海の幸」の構図を決め、一気に描き上げてから、あとでこの2人が同じ鮫を担いでいることに気づいたのではないか。そこで彼は、手前中央の漁師に自分をなぞらえ、巨大な鮫を自分の輝かしい未来に見立てて、それを担ぐ相棒にたねの顔を描き込んだ。

 すなわち、青木は敢えて全体の調和を乱すこともいとわず、「海の幸」を自分とたねとの未来の象徴として描くことで、作品に蠱惑的な魅力を与えたのだ。

 そう気づいたとき、ボクは全身が痺れたような衝撃を受け、しばらく絵の前から離れられなくなった。絵の表面、絵具のマチエール、筆の跡から、それを描いた青木が今そばにいるような錯覚を抱き、胸が苦しくなるほど興奮した。

 その後、青木は「わだつみのいろこの宮」以後、たねと幼い息子を置き去りにして、故郷の九州に帰り、酒に溺れ、病に侵され、のたうちまわるような苦悩のうちに最期を迎える。病床で姉宛てに書かれた遺書には、青木の無念と遺恨と慚愧が綴られ、何度読んでも涙を禁じ得ない。

 その感動、切なさ、激情をぜひとも小説にしたくて、研修の傍ら憑かれたように執筆に励んだのだが、結局、800枚を超えたところで中断し、その原稿は今も我が家のどこかで眠っている。