[16]F先生のこと

 F先生は胃がんの専門家で、指導医の中ではベテランの部類だった。ボク以外の研修医にも優しかったが、本人のいないところでは、名前の「二郎」から「ジロやん」と、軽く揶揄するように呼ばれていた。

 実は、F先生は指導医の中の嫌われ者で、医局内で孤立した立場だった。研修医たちが軽んじたのも、その優しさが少しでも味方を増やしたいという下心がミエミエだったからだ(ボクは親切にしてもらったので、嫌いではなかったが)。

 F先生は言葉遣いも丁寧で、物腰も低いが、自己中心的で、自分の主張はぜったいに曲げない頑固な一面があった。

 医局にはいくつも研究室があり、医局員はそれぞれのグループに分かれて研究を進めていた。必要に応じてスペースを確保するが、F先生はあれこれ理由をつけて、だれよりも広い場所を占有していたらしい。

 症例検討会では、胃カメラの診断で、F先生とほかの指導医たちがよくもめていた。胃がんにはボールマン分類というのがあり、がんの隆起と浸潤しんじゅんのちがいで、1型から4型に分けられる。隆起は見た目で判断できるが、浸潤の具合はわかりにくい。そこで2型(浸潤なし)と3型(浸潤あり)で意見が分かれるのだ。

 F先生は検討会の司会も担当していて、胃カメラのスライドが出ると、「これはボールマン2型ですね」などと決めつける。するとF先生を嫌っている指導医や講師が、「いや、周堤しゅうていが崩れてるから3型やろ」などと反論する。

 F先生は自分以外の全員が3型だと言っても、あれやこれやと反対意見を述べ、最後には司会者の特権で、「ということで、これは2型ですね」と、自分の意見を押し通してしまう。ボールマン分類は、手術にはさほど影響のない場合が多く、2型でも3型でも胃の切除範囲はほとんど変わらない。にもかかわらず、研修医の前で講師や指導医が大人げない言い合いをするのを見ていると、いかに仲が悪いのかがわかった。

 F先生は上司の講師を恐れないばかりか、教授にさえ楯突いたことがあったらしい。

 神前五郎教授は、F先生が医局内の宥和を乱すので、大学から関連病院に転勤させたいと考えていた。ところが、F先生はそれに従わず、あくまで転勤させると言うのなら、裁判に訴えると脅したという。当時の医局制度では、教授の権力は絶対で、医局員が逆らうなどということはあり得ないことだった。

 しかし、F先生は教授に従わなかった。この状況を、ある指導医がこう説明した。

「教授は“五郎”やからこうやろ(と言って指を5本広げる)。F先生は“二郎”やからこうなんや(指を2本立てる)。チョキとパーで、二郎のほうが五郎より強いんや」

 思わず「座布団3枚!」と言いたくなる解説だった。

 主張は強引だったが、F先生は手術の腕前がイマイチで、聞いたところでは、一度、比較的簡単な手術で吻合不全(縫いつけた消化管が洩れること)を起こし、教授にしばらく手術をするなと言われたらしい。

 ボクが受け持ちになった胃がんの患者さんの手術を、F先生が執刀したとき、血管の処理に手こずり、盛んに「この患者さんのアノマリー(通常とちがう状態)はすごいですな」と繰り返していた。自分の腕が悪いのではなく、患者の血管が異常だから手間取っていると言いたかったのだ。だが、F先生を嫌っていた第二助手の講師は、一度も「そうだな」とは言わなかった。

 その後、F先生は神前教授が退官したあとも大学に居残り、相変わらず嫌われていたようだ。しかし、さらに次の代で自分の後輩が教授になったとき、さすがに居づらくなって大学から出た。

 どこの病院に転勤したのは知らなかったが、しばらくして、F先生の名前が新聞に出た。がんの専門医であるF先生が、抗がん剤には発がん性がある・・・・・・・・・・・・・という論文を提出したという記事だった。胃がんの患者さんに抗がん剤を投与すると、ほかの臓器にがんができる危険性が高まるというのだ。

 抗がん剤で治療をしている医シャにすれば、こんな皮肉な論文はないだろう。いかにも人に嫌がられるF先生らしい着眼点だと、思わずニヤリとした。

[15]指導医のいじめ

 7月のある土曜日、開業医をしている父の従兄が、ボクの研修医デビューを祝って、食事会を開いてくれることになった。場所は難波にある土佐料理の店。両親と妻も招いてくれ、父の従兄も夫妻で来る予定だった。

 楽しみにしていたが、ボクは初日の遅刻も相まって、指導医の間で早くもダメ研修医のレッテルを貼られかけていた。ヤル気がなく、しょっちゅう息抜きをして、定時になるとだれよりも早く帰宅する。重症患者をいやがり、良性の患者で喜んでいる。アイツは何を考えているのかわからんと思われていたようだ。

 当時は土曜日も午前中に勤務があり、受け持ち患者の処置をして、いったん家に帰ろうとした。ところが、Sさんという肝臓がんの患者さんが熱を出した。Sさんは手術の前に、「エンボリゼーション」という治療(がんに栄養を送る動脈を詰めて、がんを縮小させる新しい治療)を受けていたので、それが原因で胆のう炎を併発したのだ。

 指導医に報告すると、さらに上のO講師からこう言われた。

「胆のう炎が悪化したら緊急手術になるから、しっかり経過を見とけよ」

 どう見るのかと聞くと、2時間ごとにSさんの腹部を押さえて、痛みの範囲が広がっていないかどうかを調べるというのだ。

 抗生物質の点滴をして、それで熱が下がれば、炎症は治まったことになる。しかし、簡単に熱は下がらず、食事会の時間が迫っても痛みの範囲も変わらなかった。2時間ごとなら、病院を抜け出して、食事会に参加できるかとも思ったが、万一、いない間に急変したら大変なことになる。そう思って店に電話を入れ、泣く泣く食事会はボク抜きでやってもらうことにした。

 夜はどうするのかと聞くと、「もちろん、2時間ごとに経過観察をしろ」と言われた。だから、ボクは夜中も2時間ごとに起きて、Sさんのお腹を押さえて、痛みの範囲が広がっていないことを確認した。

 翌日曜日も同様に観察を続けた。すると、午後2時ごろ、痛みの範囲が少し広がったように思えた。これは緊急手術になるかもしれない。変化があればいつでも連絡しろと言われていたので、ボクはすぐさまO講師の自宅に電話をかけた。緊迫した声で状況を伝えると、予想外にO講師の反応は鈍かった。

「ほんまに広がってるのか」

「はい」

「本人はどう言うてるんや」

2時間前より痛みが強くなったと言ってます」

「うーん。取りあえず当直の先生に診てもらえ」

 いつでも連絡しろと言っていたのに、明らかに迷惑そうで、病院に駆けつける気などさらさらない感じだった。

 仕方がないので、当直の指導医であるF先生に頼んで、Sさんの腹部を診察してもらった。

「これやったら、ようすを見てたらいいよ」

2時間ごとでいいですか」

 F先生は眉をひそめ、「君はずっと2時間ごとに観察してたのか。夜中も?」と、あきれたように言った。

「そんなことする必要はまったくない。昨晩はほとんど寝てないんだな。かわいそうに。この患者さんは僕が診ておくから、君はもう帰っていいよ」

 優しい言葉に、地獄で仏とはこのことだった。

 F先生によると、これくらの胆のう炎で緊急手術になることはまずなく、抗生物質の点滴で十分とのことだった。ボクはO講師に目をつけられていたので、ことさら不要な観察を言いつけられたのだろう。別の指導医からも、「君のカルテからは、何も伝わってこない」と苦言を呈されたことがある。もともと伝えることもないし、その気もないので、「はあ」と、気の抜けたような返事をすると、いかにもダメ研修医を見るような目で見られた。だから、こんないじめのような指示を与えられたのだ。

 前夜、食事会をキャンセルしたことをF先生に言うと、「それはもったいない。僕に相談してくれたら、すぐ行かせてあげたのに」と、同情してくれた。F先生こそ研修医の味方と思ったが、実はこれには深いわけがあるのだった(「F先生のこと」につづく)。

[14]はじめのころの患者さん

 大学病院にはむずかしい病気の患者さんが多く、第二外科はがんの患者さんがほとんどだった。ところがどういうわけか、ボクは良性の患者さんが2人続いた。

 1人は乳腺の嚢胞のうほうで、Tさんという30歳の女性だった。乳腺内にできた袋に液が溜まる病気で、中に良性の腫瘍もできていた。大きさはソフトボールくらいで、もっと早く受診していれば傷も小さくすんだのに、不安と恥ずかしさで、ずっと隠していたらしい。母親が見つけて、慌てて地元の病院へ行くと、すぐ大学病院へ行けと言われた。

「てっきりがんだと思って、心配で心配で」と、母親は良性と聞いたあとも不安がっていた。

 手術は嚢胞を切除するだけで、乳房は温存して、1時間余りで終わった。診断書に、指導医に言われた通り「巨大乳腺嚢胞」と書くと、あとで母親が困惑したようすでボクを呼び出した。

「すみません。診断書は会社に出すんですけど、田舎(兵庫県の山間部)なので、この病名が噂になったら困るんです。すみませんが、『巨大』というのを取ってもらえませんやろか」

 ボクは了解して、診断書を書き直した。通常、1cm前後で見つかる嚢胞が、ソフトボール大だったので、指導医は「巨大」とつけたのだろうが、患者さんにすればショックな言葉だったようだ。患者さんと医シャでは、言葉の印象がまるで異なると知った一件だった。

 もう1人は、正中けい嚢胞という顎の下にできる腫瘤で、Nくんという9歳の男の子だった。黒目のクリクリした明るい少年で、ボクとはすぐ仲良くなり、病室でしりとりをしたり、いっしょに屋上で遊んだりした。退院のときにはメモ用紙の手紙をくれ、それは今も残してある。

 Nくんの手術も嚢胞を取るだけなので、簡単に終わった。がんだと周囲のリンパ腺の郭清かくせい(まとめて取り除くこと)や、切除範囲の決定なども必要なので、手間はかかるが、勉強になる。だから熱心な研修医は、がん患者の受け持ちを喜ぶが、ボクは良性の病気がありがたかった。手術も検査も簡単だし、なにより死を意識しない分、気が楽だからだ。

 しかし、そうも言っておれず、ボクにもがんの患者さんが割り当てられた。Nくんの次に受け持ったのは、Iさんという甲状腺がんの患者さんで、先に受け持ったMさんほど美人ではないが、目の感じがMさんにそっくりだった。偶然かなと思ったが、バセドウ病(甲状腺機能亢進症)では“眼球突出”という徴候もある。もしかしたら甲状腺がんも目に関連があるのかもしれないと思っていたら、別の研修医の受け持ちで、同じような目の患者さんがいたので、病名を聞いたらやっぱり甲状腺がんだった。

 指導医に話すと、アホかという顔で否定されたが、外見に徴候が現れる病気は、実は少なくない。たとえば“バチ状指”(太鼓のバチのように先が膨れる)は、肺気腫や慢性気管支炎の徴候だし、“スプーン爪”(スプーンのように反った爪)は鉄欠乏性貧血を示唆する。肝硬変では手の平が赤くなる“手掌紅斑しゅしょうこうはん”や、小さいクモのように見える“クモ状血管腫”が現れ、男性の場合は“女性化乳房”といって胸が膨れたりする。高コレステロール血症ではまぶたに“黄色腫おうしょくしゅ”という扁平な隆起ができるし、膠原病こうげんびょうのSLEや、ヘルペス感染症の突発性発疹ほっしんでは、顔に赤いチョウチョが貼りついたような“蝶形ちょうけい紅斑”が出る。先天性梅毒(母親の胎内で感染した梅毒)では、“ハッチンソン歯”と言って、歯の下縁が半月状に凹む徴候があるし、唇に黒い色素沈着が起こるポイツ・イェーガー症候群(胃腸に多数のポリープができる)などもある。

 これらはすべて学生時代に習ったが、現場で活用されることは少ない。徴候に目を光らすより、血液検査やCTスキャンなどの画像診断のほうが、よっぽど早く正確に診断できるからだ。

 すべての徴候は、だれか診える医シャ・・・・・・が見つけたものだ。甲状腺機能亢進症だって、それまでも多くの医シャが診察していたはずだが、眼球突出と結びつけたのはカール・アドルフ・ファン・バセドウだけだった。バセドウ先生が偉かったのは、甲状腺ホルモンが計れるようになる以前にこの徴候を発見したことだ。なぜ、わかったのか。それはバセドウ先生が診える眼・・・・の持ち主だったからだ。

 かつて検査が未発達だったころ、医シャはきっと患者の徴候に目を凝らしていたのだろう。今はなまじ便利な検査があるため、医シャが患者をあまり診なくなった。

 このことは、ずっと頭に引っかかっていて、その後もボクは患者さんの外見を注意して見た。もちろん、それで病気が見抜けるようにはならなかったが、後年、『無痛』という小説で、外見の徴候からすべての病気を診断できる名医・為頼英介を構想するのには役立った。