[10]すり寄るプロパー

 病棟には、病院職員でも患者さんでもないスーツ姿の一群がそこここに屯していた。製薬会社の営業マン「プロパー」である。語源は宣伝を意味するプロパガンダから来ている。

 研修医にとって、プロパーははじめて接するビジネスがらみの人間だ。営業マンだから、「先生」という呼びかけからして、患者さんや看護師のそれとはちがう。どこかヨイショの軽薄さがあり、ご機嫌伺いの卑屈さも感じられて気味悪かった。

 プロパーは自社の薬を処方してもらうために、さまざまなアプローチで研修医にすり寄ってくる。まずは景品攻勢。ボールペン、メモ帳にはじまり、ペンライト、レーザーポインター、薬のハンドブック、爪切り、ミニ工具セット、蔵書印など、実用的なものをたくさんくれる。各社がいっせいにするので、ボールペンなどあっという間に売るほどたまる。

 毎週水曜日の昼には、各社持ち回りで、薬の説明会が開かれた。カンファレンスルームで30分ほどのビデオを見せてくれるが、同時に上等の弁当が供される。まだコンビニが普及していない時代だったから、研修医の昼食は院内の食堂か、近くの定食屋などで簡単にすますことが多かった。メニューも知れているので、毎週水曜日の弁当は楽しみだった。

 プロパーはさすがに病室までは入ってこないが、ロビーやエレベーターホールに待機していることが多かった。ロビーを歩いているとすっと寄ってきて、「先生。今、どんな患者さんを受け持ってはりますの」と聞いてくる。さらに「次の手術はいつになります」と追い打ちをかけ、迂闊に答えると、「それでしたら、術後はぜひ弊社の×××をお使いください。効果は抜群ですので」などと、満面の笑みで営業トークを聞かされる。

「考えときます」と言ってお茶を濁すと、手術後、「例の患者さん、使っていただけました?」としつこく聞いてくる。病名を聞き出し、患者さんの年齢を聞いて、手術後の経過まで訊ねるので、途中から答えずにいると、「熱は38度までは出てませんよね」とか、「白血球は1万越えてます? 12千くらいですか」などと、勝手に話を進める。適当に相槌を打っていると、それをメモしているので、何だろうと思っていると、後日、会社で症例報告を行い、パンフレットのデータにも使うのだと聞いた。そんないい加減なことをされたら困るので、以後は無言で通すことにした。

 研修医の中にはプロパーと仲よくなる者もいたが、ボクはもともと人付き合いが悪いし、まとわりつかれるのもイヤだったので、プロパーから気むずかしい研修医と思われていただろう。1度だけ、あるプロパーがポール・モーリアのコンサートチケットをくれたので、妻と聴きに行った。そのあと、特別その会社の薬を使ったりはしなかったので、ムダ玉だったと思われたにちがいない。

 プロパーはほかにも論文の検索や文献集め、学会のスライド作りなどもしてくれ、便利な存在だった。さすがに研修医は雑用を言いつけたりはしなかったが、指導医の中には、平気で煙草を買いに行かせたり、車で家まで遅らせたりする者もいた。外見をいじられたり、イジメに近いことや無視をされたりしても、プロパーは決して笑顔を絶やさない。理不尽な文句を言われても、いっさい反論せずに低頭し、ひたすらご機嫌取りにいそしむ。一重に自社の薬を処方してもらうためだ。まるで奴隷か太鼓持ちのようで気の毒だったが、その精神的なタフさに感心した。

 今は製薬協(日本製薬工業協会)が自主規制で厳しいガイドラインを作り、プロパーはMR(Medical Representatives=医薬情報提供者)と呼び名を変えて、接待や景品提供はほぼなくなった。高級な弁当や会食で処方が決められるのは許せないという世間の非難を受けてのことだが、医シャの側から言わせると、患者ごとに厳密に薬を変える必要性はあまりなく、同じ効能ならどの会社の薬を使っても大差はない。だから、接待で患者に不利益な薬が処方されることは、まずないというのが実態だ。

 世間の反発で自主規制したと言いながら、利益を得たのは莫大な接待経費を削減できた製薬会社で、MRも太鼓持ちまがいのことをする必要はなくなったが、接待や景品がなくなって、面白くない医シャの中には、もうMRなんかいらないと考える者もいる。医薬情報ならネットで十分という側面もあるからだ。

 風が吹けば桶屋が儲かるではないが、医療が健全になって、医シャは旨味が減り、MRは不要論にさらされている。

[09]採血当番

 研修医の仕事には採血当番もあった。

 ふつうの病院では採血は看護師がするが、新研修医はそんなことは知らないので、自分たちがやるべきだと思わされていた。まあ、練習の意味合いもあったのだろう。患者さんにすればたまったものではないが、いずれの医療行為も場数を踏む(患者さんで練習する)ことによって上達する。採血もやっているうちにうまくなるが、はじめは失敗も多いので、夏場に入院した患者さんは、下手な研修医に何度も痛い目に合わされることになる。

 今は真空の採血管を使うが、当時は注射器で採血して、それを採血管に移していた。まず駆血帯で上腕を縛り、静脈を怒張させて走行を確かめる。ぷっくり浮き出てくれればいいが、血管の細い人や脂肪の分厚い人は、指で探ってもわからない。その場合は、腕を叩いたりこすったり、患者さんにグーパーを繰り返してもらったり、反対の腕に替えたりする。それでも血管が出ない場合は、仕方がないのでとにかく針を刺す。運よく採血できる場合もあるが、患者さんが無駄に痛い思いをすることも多い。患者さんもつらいだろうが、研修医も焦りと申し訳なさと自己嫌悪で、内心は針のムシロ状態になる。

 針の角度は直角に近いほど刺す組織が少なくて痛みも軽いが、血管は皮膚に水平に走っているので、斜めに刺さざるを得ない。針先が血管に当たると、注射器内にわずかに血液がもどる。それを合図に、注射器をさらに倒して針先を血管内に進める。進めないと針先がズレた場合、採血ができない上に、血が洩れて青アザになるからだ。針は十分に血管内に差し入れなければならないが、差し入れすぎたり、方向を見誤ったりすると、血管を突き破り、また採血不能+青アザとなる。

 首尾よく必要量の血液が取れると、これを2ないし3本の採血管に移す。そのまま入れる管もあるが、凝固を止める試薬と反応させる管もあり、その採血管はよく振らなければならない。これが不十分だと、あとで検査室から血液凝固の連絡が来て、再採血となる。

 通常は肘の内側の静脈で採血するが、ときに横を走っている動脈を刺してしまうこともある。その場合はピストンを引かなくてもぐいぐい押しもどされるので、急いで針を抜き、10分ほど圧迫止血しなければならない。圧迫が足りないと、あとで大きな青アザになる。指で探って針を刺すのだから、動脈と静脈をまちがえるはずはないと思うが、不思議なことに採血がうまい研修医でも、動脈を刺していた(医療ミスはこうして起こる)。

 採血は患者さんの朝食前にしなければならないので、午前7時半には取りかからなければならない。当番の日、病棟に行くと、前日にオーダーされた血液検査の伝票と、人数分の採血管がワゴンに用意されている。研修医はそのワゴンを押して、ひとりで採血に向かうのである。血管の出にくい人や細い血管で手間取っていると、患者さんの朝食が遅れる上に、看護師からも文句を言われるので、のんびりやることは許されない。採血当番の日は遅刻厳禁である。

 そのプレッシャーのせいで、大問題を引き起こした研修医がいた。

 彼は前夜、車で当直のアルバイトに行っていて、翌朝、大学病院にもどる途中でバイクと衝突事故を起こしてしまった。相手は転倒したが、「大丈夫です」と言ったので、事故を気にしつつも、採血当番を遅れるわけにはいかないのでそのまま病院に行った。指導医に事故を報告すると、すぐ現場にもどれと指示された。病院の近くだったので、歩いて行くと人だかりができていて、パトカーが赤色ランプを点滅させていた。警察官に名乗り出ると、事故の被害者は鎖骨骨折で病院に運ばれたという。研修医は調書を取られたあと、被害者の見舞いに行って、改めて頭を下げた。

 事はそれで収まったかに見えたが、夕方、某新聞に大きな記事が出た。

『阪大病院医師ひき逃げ』

 ボクは一部始終を聞いていたので憤慨した。記事をよく読むと、事故後、医師は現場にもどって名乗り出たとは書いてはあるが、見出しだけ見ると、まるで逃げっぱなしのようではないか(今なら、わずかでも現場を離れたらひき逃げになることはわかるが、当時はこれをひき逃げというのは言い過ぎだと思った)。

 事故を起こした研修医は医局に呼ばれ、教授以下、幹部の前で事情を説明させられた。ボクはてっきり新聞に抗議するのかと思ったが、医局の判断は静観だった。さらには記事が週刊誌に出た場合、騒ぎが大きくなるので、どう対応するかが協議されたという。

 ふつうのサラリーマンなら同じ事故を起こしても、新聞はまず報じないだろう。いくら研修医でも、阪大病院に勤めていると、何かあれば新聞に名前が出るのだと、うそ寒い思いをした一件だった。

[08]最初の手術・後編

 甲状腺がんの手術は、術野じゅつやが首の部分のみで狭いので、3人で行う(胃がんや大腸がんなどは4人でやる)。メンバーは執刀医のT先生と第一助手のボク、そして第二助手はT先生の愛弟子のM先生だった。M先生は若いながら、後に臨床教授になった優秀な指導医で、自他ともに厳しいことでも有名だった。

 ボクが初日に遅刻したとき、多くの医局員は笑ったが、あとで「外科医の遅刻はすみませんではすまんぞ」と、厳しい一言をくれたのもこのM先生だった。

 ネーベンのとき、手術室でM先生が患者さんに滅菌布を掛けているのをぼんやり見ていると、「早く自分で動けるようになってくれよ」と、不機嫌そうに言ったのもこの先生だ。新米は教えられたこと以外はすべきでない(わけもわからず動くと危ないので)と思っていたが、積極的に動くべきなんだなと教えられた。

 先に手洗いと着替えを終えて手術台で待っていると、T先生とM先生が登場し、所定の位置についた。手術は執刀医の「お願いします」の一言ではじまる。器械出しの看護師がメスを手渡し、T先生が滅菌布で囲われた患者さんの頚部に半円状の切開を入れる。無影灯に照らされた傷口に、見る見る血があふれる。

 出血を拭き取るのは、第一助手の仕事だ。ピンセットにつまんだガーゼで拭くが、タイミングがむずかしい。餅つきの捏(こ)ね役と同じで、遅いと執刀医が苛立つし、早すぎるとメスさばきの邪魔になる。ガーゼは1回拭くごとに足元に捨てる。同じガーゼで拭くと、術野が汚れるからだ。そのへんはネーベンのときに見て心得ていたので、わずかな出血を拭いただけでも、これ見よがしに捨てた。そのとき腕を動かすと動作が大きくなるので、スナップを利かせてピンセットの先だけでクイッと捨てる。すると、指導医は「コイツはわかってるな」というような目になる。

 出血を拭くと、執刀医は出血点をモスキート(先の細い鉗子)でつまむ。ボクはその根元を結紮する。結んだあと、鉗子をはずしてもらってさらに糸を締め、2回目の結紮をする。一応は練習していたので、皮膚に近いところは無難にやり終えることができた。

 続いて皮膚と皮下組織を剥離し、甲状腺を露出する処置にかかる。ボクはコッヘル(先に鉤のついた太めの鉗子)でつまんだ皮膚を持ち上げ、執刀医の剥離をサポートする。ただ持ち上げるのではなく、執刀医の操作に合わせて、角度を変え、引っ張る強さを調節する。先を読んで剥離のお膳立てをするようにコッヘルを動かすと、生意気なヤツというように、T先生がマスクの下で苦笑を洩らした。

手術はメスを使ってすると思っている人も多いだろうが、使うのは最初の皮膚切開だけで、あとはケリー(剥離用の鉗子)やクーパー(外科用のハサミ)で剥がしていく。甲状腺が露出すると、裏面の剥離と切除にかかり、第一助手のボクはふたたび止血の結紮をする。次第にデリケートな層になり、深さはそれほどでもないが、組織が脆弱になる。下手に結紮すると組織が裂ける。

「ここは慎重に結紮してくれよ」

 T先生に言われて緊張する。

「ゆっくりでいいから、しっかり結べよ」

 M先生も声をかける。リラックスさせようとしているのかもしれないが、そんなふうに言われると、よけいにプレッシャーを感じる。T先生はふだんは温厚だが、研修医があまりに鈍くさいとキレて、意地悪になると聞いていた。ある研修医は、結紮に手間取り、苛立ったT先生が、結紮のたびに「123……」と、結び終わるまでの秒数をカウントした。そんなことをされたら、よけいに焦ってしまう。

 このときの患者・Mさんのがんは、比較的悪性度の低いタイプで、切除も片側だけでよかったので、全摘や悪性度の高いがんのときより和やかな雰囲気だった。

 ただ、がんが反回神経の近くまで広がっていたので、T先生も慎重に作業を進めた。反回神経は迷走神経の枝で、ふつうの神経は脳から下に向かうが、この神経は反転して上に向かうのでこの名がある。機能は声帯と嚥下のコントロール。左右2本あり、片方が麻痺すると声が嗄れる。両方麻痺すると声が出ない。

 がんは細胞レベルで広がるので、再発の危険性を考えると、反回神経も切除したほうが安全だ。しかし、それでは声が嗄れる。声をきれいに保つには、反回神経を残さなければならない。

「たぶん、残せるやろう」

 T先生の判断で、ギリギリ反回神経は保護されたが、ボクはその一言に首を傾げた。

 たぶん?

 命がかかっている手術なのに、「たぶん」でいいのか。大いに疑問だったが、専門家のT先生でも、その場で確実に判定する方法はなく、経験と勘に頼るしかなかった。結果は神のみぞ知る(つまり、10年後まで再発の有無を見なければわからない)なのである。

 医療とはそんなものなのかと、“逆・目からウロコ”の思いだった。