[01]初日から遅刻

 今を去ること40年前。1981年5月16日に、第71回医師国家試験の合格発表があり、ボクはなんとか医シャになった。

 とは言っても、医シャとしての技量は何も身につけていない。学生時代は知識の詰め込みばかりで、採血さえしたことがなかったからだ。別にサボッていたわけではなく、資格のない学生に医療行為はさせられないので、だれでもそういう状況だった。

 だから、医師免許を取りたての者は、まず研修医になる。自分の希望する科に入り、指導医にいろいろ教わりながら実地訓練に励むのである。

 はじめに断っておくが、ボクは高校時代に小説家になることを思い立ち、医学部に入ってからもその気持が強かったので、勉強も実習も最低限のことですませていた。エネルギーの大半は、小説家になったときに役立つこと、本を読んだり、習作を書いたり、恋愛をしたり、酒を飲んだり、一人旅をしたりに費やしてきた。つまりは遊んで暮らしていた。

 研修先を決めるときも、医師としての志などはなく、消去法で選んだ。まず、眼科や耳鼻科などはつぶしが利かないので、内科か外科を選び、内科は勉強が忙しそうだから外科を選び、外科でも心臓外科や脳外科は緊急性が高いから、比較的のんびりできそうな消化器外科を選んで、当時の第二外科に入ることにした。

 大阪大学の第二外科は、消化器だけでなく乳腺なども扱っていたので、一般外科と称されていた。教授は名医として名高い神前(こうさき)五郎先生。神前教授は『白い巨塔』の財前五郎のモデルとも言われ(実際はちがうが)、准教授(当時は助教授)以下、講師から助教(当時は助手)に至るまで、名のある一流の外科医が揃っていた。当然、医局の雰囲気は厳格で、神前教授に至っては〝雲の上の人〟という雰囲気だった。

 第二外科の研修は、国家試験の発表の翌月曜日からはじまった。

 そのころボクは新婚ホヤホヤで、11日間の新婚旅行から帰ったばかりで、頭の中は新婚生活のスタートと仕事のスタートの比率が10:1くらいだった。そのせいか、研修の初日から妻共々寝坊してしまった。

「あーっ、もうこんな時間!」

 まず妻が絶叫し、ボクも布団をはねのけて飛び起きた。洗面もそこそこに大急ぎで着替え、朝食はもちろん抜きで、最寄りの駅まで走り、電車のノロノロ運転に苛立ちつつ、汗だくになって大学病院を目指した。

 初日は朝イチの医局会で、新研修医が自己紹介をする予定だった。それに間に合わなければ、研修を断られるかもしれない。大学病院に駆け込み、エレベーターに焦れながら8階のカンファレンスルームに行くと、すでに医局会ははじまっていて、最前列に教授が座り、横で医局長が司会をして、准教授以下、全医局員が整然と着席していた。その数約60名。ボクを除く新研修医11人は、最後列で身動きひとつせず姿勢を正していた。

 壁際を這うように通って後方に行くと、同輩たちが、こんな日に遅刻するなんてと、蔑みと苛立ちの眼でボクを見た。

 そのうち、医局会が終わって、新研修医の自己紹介がはじまった。それぞれが緊張の面持ちで名前と抱負のようなことを語る。当然、そつのない挨拶が続く。

 ボクは遅刻したせいで、最後に医局員の前に進み出た。

「すみません。初日から遅刻してしまったクゲです」

 大ひんしゅくを覚悟で思い切り頭を下げると、医局員たちの間からが笑いが起こった。ウケたのである。てっきり怒られると思っていたのに、笑いが取れたので、ボクは驚きながらも、なんだ、チョロイじゃないかと思ってしまった。

 これがボクが最悪のダメ研修医になった修行のはじまりだった。

(2021.09.20更新)