[43]祖父の死

 524日。午後のカンファレンスに出ていると、家から大学病院に電話がかかってきて、祖父が危篤だと知らされた。

 祖父は13年前、ボクが中学2年生のときに脳血栓で倒れ、右半身不随になって、自宅で療養していた。元々は医者で、戦前は開業していたが、30歳で召集され、中国北東部に出征した。どういうわけか、一般の兵士として召集され、新兵の訓練で、若い兵隊について行けず、上官に「情けないヤツやな。シャバで何をしとったんや」と聞かれて、「医者です」と答えるや、「ほんなら軍医やないか」ということで、一挙に二等兵から見習士官に格上げされ、苦しい訓練を免れたという奇妙な経歴の持ち主だった。

 学生時代から多才で、飛行機の模型作りに熱中して、ゴム動力の親子飛行機や、ビラ撒き飛行機、落下傘飛行機を作ったり、手書きの「飛行機見物」という絵入り雑誌を発行して、友人に回覧したり、エボナイト製のクラシックレコードを集めたり、医者になってからも、ピアノで作曲をしたり(後年、NHK「あなたのメロディ」にも登場)、自宅で音楽会を開いたり、8ミリフィルムで監督、脚本、主演、家族総出の短編映画を撮ったり、カメラ好きで写真のコンクールに応募して、何度も入賞したりしていた。

 戦後は国立南大阪病院に勤め、最後は副院長になったが、医者の仕事はそっちのけで、副院長室にテープレコーダーやいろいろな工作器具を持ち込み、趣味に没頭していたようだ。そのころは舞踊に凝って、三味線を折りたたみ式に改造したり、紙と墨でカツラを自作したり、当時では珍しいポータブルのビデオカメラを購入して、自宅に踊り場を作って、自分の踊る姿を撮影したりしていた。

 当時、毎日放送がやっていた「素人名人会」にも応募し、どういう伝手か、踊りの審査をしていた花柳芳兵衛師匠を自宅に招き、「名人賞」が取れるかどうか、前もって見てもらったりもした。

 そうやって準備を進めていた矢先、69歳のときに脳血栓で倒れたのだった。

 ボクは小学1年生のとき、祖父宅でテレビをつけっぱなしにして、祖父に大声で叱られてから、恐怖心が先に立ち、祖父に慣れ親しむことができなかった。小学6年生のときに、祖父の踊りをビデオで撮影するように言われたときも、うまく撮れるかどうか緊張した。

 その後、中学生になって、そろそろわだかまりが消えかけたころに、祖父が倒れたので、結局、親しい関係にはなれずじまいだった。それでも、ボクが大学に合格したときは喜んでくれたし、卒業したときも、結婚したときも、言語障害の不自由な言葉で祝福してくれた。

 祖父はずっと自宅にいたが、祖母は身体が弱かったので、介護は主に母が通いで担っていた。祖父は前立腺肥大で、膀胱ろう(下腹部に穴を開け、膀胱にカテーテルを挿入して排尿させるもの)を作っていたが、そのカテーテルの洗浄なども、元看護師の母がしていた。介護保険や在宅医療などはまだ影も形もなく、母の苦労には簡単に語りきれないものがあったと思う。

 祖父危篤の連絡を受けたあと、ボクは指導医に許可をもらって、すぐに大学病院を出た。その日は車で出勤していたので、阪神高速に乗り、死に目に間に合うように堺の祖父宅まで車を飛ばした。

 しかし、祖父はこれまでにも何度か危篤になりかけ、その度に持ち直していたので、もしかすると今回も復活するかもしれないという不安がよぎった。そうなると、深刻な顔で病院を飛び出したボクは恰好がつかない。ただでさえ、サボリのダメ研修医と見られているのが、また口実を作って早退したと思われかねない。そこでハンドルを握りながら、オジイチャンが死なないと困るなと、バチ当たりことを思ったりした。

 祖父宅に着くと、幸いというのもヘンだが、祖父はすでに下顎呼吸になっており、死は免れない状態だった。祖母、父、母もベッドの横に控えている。自宅なので心電図などはつけていないが、次第に下顎呼吸が間遠になり、やがて最後の息がもれた。

 ボクは型通りにベッドに上がり、祖父に心臓マッサージを行った。今ならそんなバカなことはしないが、研修医のころは、心臓が止まったら心臓マッサージをすると、刷り込まれていたのだ。

 数回、胸を押すと、祖母が「もう、ええ」と言って、ボクを止めた。祖父が蘇生しないことは、だれの目にも明らかだった。行年83

 静かに祖父の死に顔を見ていると、玄関に慌ただしい足音がして、祖父の妹である大叔母が駆け込んできた。そして、祖父のベッドに近づくや、「兄ちゃん、しっかりしいや」と叫んだ。祖母がすでに臨終だと告げると、大叔母は「なんや。みんな冷たいやないか」と怒った。大叔母にすれば、祖母や我々が、何もせずに祖父を死なせたように思えたのだろう。それこそ心臓マッサージでもしていれば、大叔母も納得したのかもしれない。もちろん、それは意味がないだけでなく、祖父の穏やかな最期を乱すものであるのは明らかだ。

 大叔母は離れて暮らしていたこともあり、めったに祖父の見舞いに来ていなかった。いわゆる“遠くの親戚”というヤツだ。その後、病院で穏やかな看取りを乱す家族を見るたびに、ボクはあのときの大叔母を思い出した。

[42]幼なじみの入院

 第二外科での研修が終わりに近づいたある日、血液内科の研修医だったTが、「おまえの幼なじみが入院してるぞ」と教えてくれた。

 Z・Jちゃんと言い、家が近所で同じ幼稚園に通っていた。いっしょに登園したり、Jちゃんの家に遊びに行ったり、2人で金魚すくいをしたりした。目に特徴のあるおしゃまな感じの女の子で、ウェーブのかかった髪をよくポニーテールにしていた。

 小学校では同じクラスにならず、途中で転校したので、それ以来、音信は不通になっていた。

 教えられた病室に行くと、たしかにJちゃんが入院していた。やや面長になっていたが、目の感じは幼稚園のころそのままだった。

「クゲくん、久しぶり。ほんまにお医者さんになってたんやね」

 Jちゃんは白いネグリジェを姿で、ベッドに半身を起こしてボクを歓迎してくれた。声は聞き覚えのある温かいかすれ声だった。

 部屋は個室で、壁に彼女が描いた歌手のイルカの絵が貼ってあった。虹の下でサロペットに白いTシャツを着て、麦わら帽子をかぶったイルカのイラストだ。クレヨンで彩色され、幼女のように笑っていた。

「あたし、イルカちゃんのファンやねん」

 絵をほめると、Jちゃんは嬉しそうに応えた。

 病室では、幼稚園のころの思い出や、むかし近所でいっしょに遊んだ友だちの話をし、Jちゃんも自分のOLの仕事のことなどを聞かせてくれた。

 病気については、少し困ったような顔でこう説明した。

「友だちと香港に買い物に行って、帰ってきたら、なんか身体がだるくて、午後になったら、微熱が出るようになったんよ。近くのお医者さんで診てもろたら、すぐ大きな病院へ行けって言われて、それで阪大病院を紹介してもらったの。そしたら、ちょっと質の悪い貧血やって言われてね」

「そうなんか。けど、まあここに入院してたら安心やろ。頑張って治療しいや」

 そう励まして。ボクは病室を出た。

 Jちゃんは貧血と言ったが、Tから聞いていた病名は白血病だった。

 Tによれば、今は白血病の治療も進んでいて、まずは強力な抗がん剤で「寛解導入療法」をしてから、複数の抗がん剤を使う「地固め療法」をやるとのことだった。そのあとは、ようすを見ながら予防的な「維持療法」に移行するという。

 ボクはそれまでに、同級生の女の子を2人、白血病で亡くしていた。

 ひとりは小学56年生のときに同じクラスだったM・Mちゃん。おでこの目立つ丸顔で、はにかみ屋だけれど、明るい女の子だった。グループ学習のときにいっしょに勉強したりした。

 Mちゃんはあるときから学校を休むようになって、先生からむずかしい病気だと知らされ、みんなでお見舞いの寄せ書きをしたりした。クラスの女の子たちは、自宅に見舞いに行き、ボクも行かなければと思っていたが、そうこうするうちに中学生になり、時間がすぎてしまった。

 訃報は突然もたらされた。夏の暑い日で、ボクは信じられない思いだったが、どうしようもなかった。葬儀には参列し、遺影に手を合わせたが、人生には取り返しのつかないことがあると、このときはじめて痛感した。

 もうひとりは、Y・Tちゃんといって、小学34年生のときに同じクラスで、ボクが密かに想いを寄せいていた相手だった。体格が立派で、スポーツ万能、姉御肌の女の子だった。ボクは常に意識していたが、彼女のほうは見向きもしてくれなかった。56年は別のクラスになり、そうなると話しかけることもできず、ボクは3階の教室の窓から、Tちゃんが運動場で遊んでいるのを、うら淋しい気持ちで眺めたりした。

 Tちゃんは私立の中学校に行ったので、それきり会わなくなったが、高校のときに一度、通学の電車で見かけた。彼女は気づかなかったようだが、ボクは懐かしいような、ほろ苦い思いで密かに彼女を見た。

 彼女の訃報も突然もたらされた。知らせてくれた同級生に聞くと、死因は白血病とのことだった。知ったのは葬儀も終ったあとだったので、遺影を拝むこともなかった。

 Jちゃんはしばらく入院していて、無事、地固め療法を終え、完全寛解(白血病の細胞がほぼ駆逐された状態)となって退院した。

 それから約1年後、通勤の途中で偶然、出会ったTから、Jちゃんが亡くなったことを知らされた。退院後、「維持療法」のために再入院して、そのときに使った抗がん剤の副作用で、肺炎を起こしたとのことだった。

 Tは半ば申し訳なさそうに、半ば仕方なさそうに、淡々と言った。

「Zさんは、最後は病院を恨んでたと思うで。維持療法は症状がない状態でやる治療やから、身体は何ともないのに、入院させられて、強い薬を投与されて、その副作用で亡くなったんやから」

 よかれと思った治療が裏目に出る。本人も家族も、どれほど悲しみ、苦しんだことだろう。悔やんでも悔やみ切れない医療の現実だった。

[41]自費出版本

 画家になりたいなら芸大、音楽家になりたいなら音大、芸人になりたいなら吉本の養成所と、それなりのコースがあるが、小説家になりたいならどうすればいいのか。考えてもわからなかった。大阪には「大阪文学学校」というのもあったが、ネットもない時代で、情報もなく、ずっと孤軍奮闘、五里霧中の状態だった。

 学生時代には、文芸雑誌の新人賞に応募したこともあったが、純文学系と大衆小説誌のちがいもわかっておらず、一次選考にさえ引っかからなかったので、早々にあきらめていた。

 そんなとき、大阪梅田の紀伊國屋本店の奥に、「自費出版コーナー」というのを見つけ、学生の小遣いでもまかなえそうだったので、大学6年の夏に、『PAUL』というタイトルで短編集を100冊作った。B6版(週刊誌の半分)で、86ページ。中身は学生時代に書きためた短編6作。タイトルの由来は、敬愛する画家のゴーギャンから拝借した。

 表紙は19世紀にイギリスで出ていた挿絵入り文芸誌「The Yellow Book」を模して、黄色字に黒一色のデザインにした。木版で何かをつかもうとする両手を彫り、周囲にはゴーギャンばりの紋様を入れた。

 大学に合格したあと、ボクは最初の5年間は勉強そっちのけで、小説の習作と、サッカー、映画にデート、飲み会、一人旅などに明け暮れ、気楽な大学時代を謳歌していた。5回生の終わりには、1カ月ほどヨーロッパを放浪したりしていたので、6回生になったときには、学業が同級生に比べそうとう遅れていた。そのため、卒業試験と翌年の国家試験に備えて、猛勉強をしなければならなかった。

 記憶の中では、4月から死にものぐるいで勉強したつもりだったが、7月に『PAUL』を出しているところを見ると、案外、そのころまでは片手間だったのかもしれない(夏休み以降は、文字通り死にものぐるいだったはずだけれど)。

 自費出版コーナーでは、本の販売もしてくれ、1700円で30冊ほど置いてもらったら、間もなく完売した。続けていれば、ひょっとしてプロの編集者の目に留まり、デビューということもあり得るのではないか。そんな思いで、第二集も出そうと考えた。

 しかし、大学卒業後は、青木繁を主人公にした長編にかかりきりで、研修医の仕事も忙しく、新たに短編を用意するのがむずかしかった。そこで、新作は2編のみにして、『PAUL』に収録できなかった学生時代の短編6つを、少し手直しして入れることにした。前作と同じく、B6版で98ページ。タイトルの『AUBREY』は、「The Yellow Book」の表紙を描いていた挿絵画家、ビアズレーから取った。表紙もビアズレーふうの黒の目立つ極端な遠近法のイラストにした。

 出したのは年末で、前作同様、自費出版コーナーに置いてもらうと、30冊が割と早くに売れた。しかし、当然ながら、編集者や出版社からの連絡はなかった。

 ここであきらめてはならじと、麻酔科の研修医になった翌年にも第三集を出した。同じ判型で、短編6作、112ページ。タイトルの『FRANZ』は、カフカから頂戴した。タイトルに人名をつけたのは、作品集を我が子のように思っていたからだが、そんな幼稚なことをしていたから、なかなか芽が出なかったのだと今では思う。

 第3集の表紙のイラストは、ヴィスコンティの『ルードヴィヒ』の一場面を、半分自画像ふうにアレンジした。

 あとがきにはこうある。

『もし、このまま作品集を出していくとすれば、次からは長い暗黒時代にはいるでしょう。四集、五集を出していくことを考えるとぞっとする。完全な孤独のままで、そのような惨めさに、人は耐えて行けるものでしょうか?』

 暗闇の中をひとりで手探りしているのがよくわかる文章で、今読んでも痛々しい思いに駆られる。

 あとがきには、続けて自費出版本を出すつもりのように書いているが、実際には第3集で終わった。作品集を買ってくれた人が手紙をくれて、もし小説家になりたいと思っているのなら、同人雑誌に入りなさいと、アドバイスをくれたからだ。丁寧にいくつかの同人雑誌の主宰者名と連絡先まで書いてくれていた。

 そこでボクは、地元の堺に発行所がある「文学地帯」という同人雑誌に加入を申し込み、作品を発表するようになった。さらに「VIKING」という芥川賞や直木賞の候補者がゴロゴロいる雑誌に移り(山崎豊子、高橋和巳、津本陽などが元同人)、「文學界」や「新潮」などの商業雑誌の新人賞にも応募し、計4回、最終候補にまでなったけれど、受賞には至らなかった。候補作のひとつは「新潮」に掲載されたけれど、それでおしまい。

 そのあと、48歳のデビューまで、長い長い暗中模索の日々が続くのだった。