[40]今は昔のこぼれ話・2

・保険本人自己負担ゼロ。

 今からはとても考えられないが、ボクが研修医になった当時は、健康保険(現在の職域保険)に加入している本人は、医療費の自己負担がゼロだった(家族はたしか1割負担、国保は本人家族とも1割負担)。

 だから、自分の薬が必要になったときは、受け持ちの保険本人の患者さんに処方して、処方箋に「主治医渡し」と書いておくと、看護師がこちらに渡してくれた。

 風邪をひいたときなど、PL顆粒やダンリッチなどを処方したが、自分も保険本人なので、別に医療費をごまかしているわけではない(因みに、ダンリッチは脳出血の危険ありとして、後に製造中止になった。眠気の副作用はあったけれど、鼻水止めに抜群の効果があったので残念だった)。

 国民皆保険の達成は1961年で、1973年から70歳以上の自己負担がゼロになり、病院の待合室が高齢者の社交場となって、病院に来ないと、「あの人、どっか悪いんとちゃうか」というような冗談が出るほどになって、医療費を押し上げた。

 保険本人の自己負担ゼロも同様で、1984年からは本人でも自己負担1割になった。それまでタダだったものが、1割負担になって、世間の反発は大きかったが、1割では間に合わず、その後、2割、3割となったのは周知の通り。タダほど高くつくものはないということか。

・二重カルテ。

 第二外科の医局に留学していたマレーシア国籍のR先生が、咽頭がんになって、診断がついたときにはすでに肺に転移していて、末期の状態だった。

 当時は本人にがんの告知をしない時代で、R先生はがんであることは自覚していたが、肺に転移していることは告知されていなかった。R先生は第二外科の病棟に入院し、指導医に信頼の厚い研修医のYが受け持ちになった。抗がん剤の治療がはじまったが、効果はなく、症状は増悪する一方だった。R先生は詰め所に来て、自分のカルテを見るので、病状の悪化を隠すため、二重カルテが作られた。

 検討会で、R先生の先輩に当たる指導医が、R先生の胸部X線写真を示して、「どんどん悪くなってる。どうしたものか」と、悲愴な顔をしていた。

 Yに「どうや、本人は気づいてないか」と聞き、Yは「まだ大丈夫みたいです」と答えたが、バレるのは時間の問題のようだった。

 その後、R先生は亡くなり、Yは葬儀に出席した。

 二重カルテまで作って、患者を欺くのは、思いやりなのか、欺瞞なのか。いずれにせよ、今では考えられないことである。

・医療ミス。

 ボクの受け持ち患者さんではなかったが、乳がんの疑いと診断された女性の手術で、乳房のしこりががんかどうかを、麻酔をかけてから確認したケースがあった。通常は手術の前に調べるのだが、たぶん、がんの疑いは濃厚なものの、はっきりしなかったのだろう。それで全身麻酔をかけて、乳房切除術の用意をしてから、念のためにしこりだけを摘出して、病理検査に出した。

 たまたまボクは横で見学していたのだが、検査の結果が出るまで、執刀医たちはすることがない。5分、10分、15分と時間が流れても、結果はなかなか返ってこなかった。

 しびれを切らせた執刀医が、「たぶん、がんにまちがいないやろ。切除をはじめよう」と、女性の胸の切除する範囲に大きくメスを入れた。

 その直後に病理部から連絡が来て、「良性」との判定が告げられた。

 慌てた執刀医は、「そんなはずないやろ」と、病理部に問い合わせたが、判定は覆らなかった。患者さんはまだ20歳代だったはずだ。その白い胸に、紡錘形の大きな傷を負わせてしまったのだ。明らかな医療ミスで、申し開きのしようもないが、執刀医はせめてもの償いに、メスで切り裂いた皮膚を、極細の糸でふだんの何倍も丁寧に縫合していた。それでも明瞭な傷跡が残ることは避けられない。

 その後、患者さんと家族にどう説明したのかはわからないが、少なくとも訴訟になったという話は聞かなかった。示談になったのかもしれないが、これも今では考えられないケースだ。

 当時、大学病院の権威は絶大で、医療ミスがあっても、患者さん側がごまかされたり、泣き寝入りさせられたりすることも少なくなかったのではないか。その後、各地に大学病院で、患者の取りちがえや、臓器の切りまちがいなどという単純ミスが発覚し、権威が地に落ちて訴訟も増えた。

 それがいいのか悪いのかわからないが、権威はやはり怪しいと思ったほうがいいようだ。

[39]今は昔のこぼれ話・1

 ボクが研修医だったのは40年以上も前なので、今ではなくなってしまったもの多い。いくつか思い出してみよう。

・アンプルカッター。

 これは砂を固めて作ったハート型の小さな器具で、薬のアンプルを切るときに使っていた。

 現在のアンプルは、くびれの部分にはじめから切れ目がつけられていて、丸印のところで簡単に折れるが、当時のアンプルには切れ目がなかった。

 だから、その切れ目をつけるため、ハート型のへこんだ箇所をくびれに当てて、ガリガリとこすった。それで一気に曲げるとポキッと折れるのだが、切れ目が浅いとなかなか折れず、力を入れすぎたり、切れ目が深すぎたりすると、アンプルが割れて、最悪、手に怪我をすることもあった。

 特に20mlの大きなアンプルは要注意で、ある研修医は指に深い傷を負って、指導医に縫合してもらっていた。

・エアー針。

 今の点滴はプラスチック製のソフトバッグで、点滴ルートの針は、口のゴム栓に刺すだけになっているが、ボクが研修医のころは、ほとんどの点滴がガラス瓶で、ルートの針を刺すだけでは陰圧になって滴下しないので、エアー針をゴム栓の横に刺さなければならなかった。

 この方法だと、液の滴下に従って、泡が点滴内に入っていく。空気中の埃などが液に溶ける危険性があるので、エアー針には微細なフィルターがついていた。ところが、このフィルターに点滴の液が逆流してついてしまうと、空気が通らなくなって、点滴が落ちなくなる。すると、針の先で血が固まって詰まるので、刺し直しになり、患者さんに痛い思いをさせることになった。

 それだけでなく、ガラス瓶は重いし落とすと割れるので(たまに手を滑らせて、廊下で点滴瓶を割る研修医もいた)、途中からプラスチックボトルが増えてきた。これもエアー針は必要だが、プラスチックなので、ボディに刺すことができ、空気が液内を通過しないのが利点だった。それでも、液面に外気が触れるので、まだ完璧ではなかった。

 たまにエアー針を刺し忘れると、途中で滴下しなくなり、針が詰まる。ある看護師は、巡回でエアー針のない点滴を見つけ、急いで刺してことなきを得たあと、ボクにしみじみとこう言った。

「わたしたち、何をやってるんだろと思ってましたけど、やっぱりわたしたちの仕事は意味があるんですね」

 勤務2年目の看護師で、大学病院での仕事に疑問を抱いていたようだ。

 エアー針が不要なソフトバッグは、40年前でも作ることはできただろうに、点滴は瓶という固定観念が邪魔をして、開発が遅れたのだろう。

・注射器での採血。

 採血は今は真空採血管を使うが、ボクが研修医のころはディスポーザルの注射器を使っていた。駆血帯もただのゴム管で、患者さんの腕に巻いたあと、先を折り曲げてはさんで留めていた(留め金のついた駆血帯も少しはあった)。

 注射器で採血を終えると、採血管に血液を移すときや、針にキャップをかぶせるときに、針刺し事故の危険があったが、真空採血管では、血管に針を刺したまま、採血管をホルダーに差し込んで採血し、すんだら針はキャップをせず、専用の針捨て容器に落とし込むので、針刺し事故の危険性がぐっと減った。

 しかし、血管を刺す手順は同じなので、採血がしやすくなったわけではないだろう。

・剃毛。

 手術をする部位は、皮膚の感染を防ぐため、手術前に産毛、腋毛、陰毛などを、カミソリで徹底的に剃るのがふつうだった。今は細かな傷がかえって感染を起こしやすいとの理由で、カミソリは勧められないらしい。

 ボクが研修医だったとき、看護師から男性患者さんの陰毛は、研修医が剃ってほしいという要望が出た。それはもっともだということになり、看護師長の鶴の一声で、指導医たちも受け入れた。

ボクも剃らされたが、使うのは長い柄のついた理髪師用のカミソリで、扱いに苦労した。問題は陰嚢の表面で、セッケンをつけて剃ろうとすると、陰嚢の皮膚は不随意に動き、しかも毛根は鳥肌のようにブツブツになっているので、滑らかに剃れない。それでも毛を残したらいけないと思うので、悪戦苦闘して剃るうちに、あちこち切ってしまい、陰嚢が血だらけになった。

 ボクだけでなく、何人かの研修が同じ失態を演じたので、ふたたび看護師長の鶴の一声で、また看護師が剃るようになった。看護師たちの卓抜な技術に感服したが、陰嚢を血だらけにした患者さんには、誠に申し訳なかった。

[38]第一外科と第二外科

 ボクが研修医だった当時、阪大医学部の外科は、第一外科と第二外科に分かれていて、隠微なライバル関係にあった。隠微なというのは、表向き、どちらも相手など眼中にないという素振りをしていたからだ。

 第一外科は心臓外科、呼吸器外科、一般外科、小児外科の4グループに分かれていて、それぞれにチーフがいた。メインは心臓外科で、当時の川島康生やすなる教授を含め、歴代の教授は心臓外科医だった。だから、第一外科と言えば心臓外科のイメージが強く、医局内でも心臓外科グループが幅を利かせていた。

 心臓のトラブルは、患者さんの死に直結するため、手術の前後は厳重な監視が必要で、緊急性も高く、心臓外科医は常に臨戦態勢、すなわち多忙を極める状態だった。研修医も同様で、何日も病院に泊まり込みを続けたり、早朝から深夜まで仕事に追いまくられたりで、ほとんど人間的な生活ができないというのが通り相場だった。

 一方、第二外科はがんの手術が中心で、食道・胃グループ、肝・胆・膵グループ、大腸・直腸グループ、乳腺グループ、甲状腺グループ、血管グループの6つに分かれていた。メインは消化器で、こちらは心臓に比べると命に関わる度合いも少なく、緊急性もさほど高くないので、第一外科より楽ではないかというのが、ボクが第二外科を選んだ理由だった。

 実際、第二外科の研修医は、空き時間に卓球をしたり、喫茶店で休憩したり、屋上でキャッチボールをしたりする余裕があったが、第一外科の研修医たちは、いつも顔を引きつらせて病棟や医局を走りまわっていた。

 一度、エレベーターで、第一外科の研修医を引き連れた指導医(クラブの先輩でよく知っている人)といっしょになったが、ボクが結婚していることを話すと、こう言われた。

「第二外科はええのぉ。第一外科の研修医は、結婚するヒマのあるヤツなんかおらんぞ」

 それくらい第一外科の研修医は多忙だった。休息もままならない過酷な環境で、研修医たちを支えていたのは、エリートとしてのプライドではなかったろうか。たしかに、第一外科と第一内科は、大学病院内でもエリートの雰囲気が強かった。エレベーター内での指導医の口調も、たぶんに揶揄を含んでいて、オレたちは研修の緩い第二外科とはちがうんだという空気が、濃厚に漂っていた。

 第一外科と第二外科では、つまらない意地の張り合いもあった。

 絶食でも十分な栄養を補える“中心静脈栄養”をどう呼ぶか。第一外科は、「IVH」(Intravenous Hyperalimentation=静脈内高栄養の略)と呼び、第二外科は「TPN」(Total Parenteral Neutrition=総合非経口栄養の略)と呼んでいた。第一外科のほうが先行していたので、何となく「IVH」のほうが優勢だったが、第二外科でうっかり「IVH」と口にすると、指導医に怒られた。

「中心静脈栄養は、トータルな栄養で、ハイパー(過剰)な栄養ではない」というわけだ。こじつけくさいと思っていたが、今はTPNのほうが優勢らしい。

 第二外科には心臓や肺の手術ができるグループはなかったが、第一外科には消化器や乳腺の手術ができる「一般外科」というグループがあった。これは第二外科にとってはおもしろくない状況だった。第二外科では細かく分かれている消化器と乳腺のグループを、第一外科では一まとめにして扱っているのだから。

 しかし、その分、手術の実績には大きな差があった。たとえば、食道がんの手術では、食道を切除したあと、胃を管状にして、首の近くで吻合するが、余裕のない状態でつなぐので、もれることがよくあった(吻合不全という)。こうなると、絶食期間を延ばして閉じるのを待つか、再手術で吻合しなおさなければならない。

 第一外科でも第二外科でも、年間の吻合不全はだいたい5例ほどと言われていた。しかし、食道がんの手術件数は、第一外科が年間10例ほどなのに対し、第二外科は50例ほどあった。つまり、吻合不全を起こす率は、第一外科が5倍ほどあったということだ。

 それは当然で、手術は症例数が多ければ多いほど、外科医の腕も上達する。第一外科の一般外科グループは小所帯で、胃がんや大腸がんも扱っていたので、食道がんの症例数が少なかった。それがこの吻合不全の発生率につながっていたのである。

 後年、ボクが大阪府立成人病センター(現・大阪国際がんセンター)の麻酔科に勤務したとき、第一外科出身の医者が食道がんになって入院してきた。第一外科出身の医者なら、当然、大学病院の第一外科に入院すべきだが、吻合不全のことを考えると、躊躇したのだろう。しかし、だからと言って第二外科に入院するわけにもいかない。

 そこで、第二外科の関連病院である成人病センターに、こっそり入院したというわけだ。

「大学病院は何でもできるデパートで、成人病センターは専門店だと思ってるんですよ」

 苦笑いをしながらそう取り繕っていたが、その医者の顔には、第一外科の食道がんの手術は信用できないと書いてあった。

・追記

 同じ分野の病気を別々の科で扱うのは不合理なので、現在は第一外科の消化器疾患グループと、第二外科のそれは統合されている。第一から第四に分かれていた内科も同様で、専門分野ごとの内科に再編されている。今も高齢の医局員には派閥意識が残っているようだけれど。