研修医の仕事には採血当番もあった。
ふつうの病院では採血は看護師がするが、新研修医はそんなことは知らないので、自分たちがやるべきだと思わされていた。まあ、練習の意味合いもあったのだろう。患者さんにすればたまったものではないが、いずれの医療行為も場数を踏む(患者さんで練習する)ことによって上達する。採血もやっているうちにうまくなるが、はじめは失敗も多いので、夏場に入院した患者さんは、下手な研修医に何度も痛い目に合わされることになる。
今は真空の採血管を使うが、当時は注射器で採血して、それを採血管に移していた。まず駆血帯で上腕を縛り、静脈を怒張させて走行を確かめる。ぷっくり浮き出てくれればいいが、血管の細い人や脂肪の分厚い人は、指で探ってもわからない。その場合は、腕を叩いたりこすったり、患者さんにグーパーを繰り返してもらったり、反対の腕に替えたりする。それでも血管が出ない場合は、仕方がないのでとにかく針を刺す。運よく採血できる場合もあるが、患者さんが無駄に痛い思いをすることも多い。患者さんもつらいだろうが、研修医も焦りと申し訳なさと自己嫌悪で、内心は針のムシロ状態になる。
針の角度は直角に近いほど刺す組織が少なくて痛みも軽いが、血管は皮膚に水平に走っているので、斜めに刺さざるを得ない。針先が血管に当たると、注射器内にわずかに血液がもどる。それを合図に、注射器をさらに倒して針先を血管内に進める。進めないと針先がズレた場合、採血ができない上に、血が洩れて青アザになるからだ。針は十分に血管内に差し入れなければならないが、差し入れすぎたり、方向を見誤ったりすると、血管を突き破り、また採血不能+青アザとなる。
首尾よく必要量の血液が取れると、これを2ないし3本の採血管に移す。そのまま入れる管もあるが、凝固を止める試薬と反応させる管もあり、その採血管はよく振らなければならない。これが不十分だと、あとで検査室から血液凝固の連絡が来て、再採血となる。
通常は肘の内側の静脈で採血するが、ときに横を走っている動脈を刺してしまうこともある。その場合はピストンを引かなくてもぐいぐい押しもどされるので、急いで針を抜き、10分ほど圧迫止血しなければならない。圧迫が足りないと、あとで大きな青アザになる。指で探って針を刺すのだから、動脈と静脈をまちがえるはずはないと思うが、不思議なことに採血がうまい研修医でも、動脈を刺していた(医療ミスはこうして起こる)。
採血は患者さんの朝食前にしなければならないので、午前7時半には取りかからなければならない。当番の日、病棟に行くと、前日にオーダーされた血液検査の伝票と、人数分の採血管がワゴンに用意されている。研修医はそのワゴンを押して、ひとりで採血に向かうのである。血管の出にくい人や細い血管で手間取っていると、患者さんの朝食が遅れる上に、看護師からも文句を言われるので、のんびりやることは許されない。採血当番の日は遅刻厳禁である。
そのプレッシャーのせいで、大問題を引き起こした研修医がいた。
彼は前夜、車で当直のアルバイトに行っていて、翌朝、大学病院にもどる途中でバイクと衝突事故を起こしてしまった。相手は転倒したが、「大丈夫です」と言ったので、事故を気にしつつも、採血当番を遅れるわけにはいかないのでそのまま病院に行った。指導医に事故を報告すると、すぐ現場にもどれと指示された。病院の近くだったので、歩いて行くと人だかりができていて、パトカーが赤色ランプを点滅させていた。警察官に名乗り出ると、事故の被害者は鎖骨骨折で病院に運ばれたという。研修医は調書を取られたあと、被害者の見舞いに行って、改めて頭を下げた。
事はそれで収まったかに見えたが、夕方、某新聞に大きな記事が出た。
『阪大病院医師ひき逃げ』
ボクは一部始終を聞いていたので憤慨した。記事をよく読むと、事故後、医師は現場にもどって名乗り出たとは書いてはあるが、見出しだけ見ると、まるで逃げっぱなしのようではないか(今なら、わずかでも現場を離れたらひき逃げになることはわかるが、当時はこれをひき逃げというのは言い過ぎだと思った)。
事故を起こした研修医は医局に呼ばれ、教授以下、幹部の前で事情を説明させられた。ボクはてっきり新聞に抗議するのかと思ったが、医局の判断は静観だった。さらには記事が週刊誌に出た場合、騒ぎが大きくなるので、どう対応するかが協議されたという。
ふつうのサラリーマンなら同じ事故を起こしても、新聞はまず報じないだろう。いくら研修医でも、阪大病院に勤めていると、何かあれば新聞に名前が出るのだと、うそ寒い思いをした一件だった。