研修医の同僚はまじめで熱心な者が多かったが、1人、Oというのんきな研修医がいた。Oはボクと学生時代から仲がよく、よく飲みに行ったりスキーに行ったりした。
研修医になってからも、息抜きの相手は彼が多かった。仕事の手が空くと、「ちょっとコーヒーでも」と、院内の喫茶部に下りていく。そこでバカ話をして憂さを晴らすのである。
Oはボクの結婚式にも来てくれていたから、妻のことも知っていた。「新婚生活はどうや」と聞くので、「うん、世の中がバラ色に見えるな。ピンクのサングラスをかけてるみたいや」と答えると、「ひえ~っ」と悶絶していた。
彼は我が家の来客1号でもあった。
勤務を終えたあと、Oの車で我が家に向かったが、着替えるのが面倒だったので、2人とも白衣のまま車に乗った。ところが、Oの車はオンボロの中古車で、今では考えられないが、交差点の真ん中でエンストしてしまった。いくらセルをまわしてもスタートしない。信号が変わりそうになったので、ボクが慌てて外に出て、後ろから車を押した。街中で白衣姿で車を押すボクと、白衣姿でハンドルにしがみつくOは、周囲からはそうとう奇異に見えただろう。
その後も何度もエンストしながら、予定時間に大幅に遅れて我が家に到着した。ご馳走を用意していた妻をずいぶん待たせたが、Oのとぼけた話で妻も大笑いし、楽しいひとときを過ごした。
食事のあと、Oが帰ろうとしたら、今度は本格的にエンジンがかからなくなった。仕方なく、Oは我が家に泊ることになったが、そのつもりで準備をしていなかったからか、寝るときに服を脱ぐと、ランニングシャツの背中に虫食いの穴が開いていた。それを見た妻は、「ものぐさなOさんらしい」と、また大笑いした。
人のことは言えないが、Oはボク同様、あまり医療に熱心でなかった。
患者さんの血液検査で、ナトリウム、クロール、カリウムなどの電解質を計るが、この値が下がると、さまざまな障害が起こるので、補正しなければならない。指導医はこの補正を論理的に行うよう求めた。すなわち、電解質の検査値と全血量からトータルの電解質量を求め、尿の電解質濃度と尿量から1日の排泄量を割り出し、不足量を計算して点滴で補うのである。いかにも論理的だが面倒臭い。
指導医はさらにデータの先を読んで、早めに処置しなければならないと言っていた。だから、熱心な研修医は頻繁に血液検査をして、不足に傾くと素早く計算して、補正に努めた。
ものぐさで、医療に消極的なOは、そんなことはしない。あるとき、Oの受け持ち患者のカリウムが、正常値のギリギリまで下がっていた。指導医の教えに従うなら、すぐ再検査をして、補正の準備をしなければならない。
「どうするんや」と聞くと、Oは「ちょっとようすを見る」と言った。
「再検査はせんのか」と聞くと、「再検査して、正常値より下がってたら、面倒くさい計算をせなあかんやろ」と言う。
いやいや、それは必要やろと、ダメ研修医のボクでさえ心配したが、Oは悠然と構えていて、3日後くらいにようやく再検査をしたので、「どうやった」と聞くと、「正常値にもどってた」との答え。彼は人間がもつ自然な回復力に信頼を置いているのだった。
Oは決して熱意のある研修医ではなかったが、不思議と彼の受け持つ患者さんは順調に退院する人が多かった。
逆に熱心にあれこれ工夫し、積極的な医療をする研修医にかぎって、患者さんは手術後に重症化したり、思わぬ合併症を引き起こしたりした。医療はやればいいというものではないと、横で見ていて思ったが、医学を信奉している研修医たちには、前向きな考えしかできないようだった。
当時はまだ医療がイケイケの時代で、がんの手術ではできるだけ広範囲に切除したほうが再発しにくいという思い込みから、臓器を取り過ぎて患者さんが亡くなったり、寝たきりになったりしていた。抗がん剤も強力に投与して、副作用で患者さんの体力を奪ったり、場合によっては余命を縮めたりした。
それではいけないというので、今は温存手術や待機療法が見直されている。Oの消極的医療は、それを先取りしていたのかもしれない。