[13]患者さんのお礼

 今では御法度だが、当時は患者さんから現金のお礼はふつうにあった。オーベンのK先生からも、お礼のもらい方を指導された。

「お礼は手術の前には受け取らんほうがええぞ。結果が悪かったとき、気まずい思いをするやろ」

 ということは、手術のあとでもらえばいいということだ。しかし、手術の前に「よろしくお願いします」と、熨斗袋を差し出す患者さんも少なくない。そんなとき、「受け取れません」と言うと、ずっと受け取らないのかと誤解される。だから、前に「今は」とつける。微妙なアクセントで「今は・・、受け取れません」と言うと、相手もその含みを呑み込んでくれる。

 K先生によれば、出されたお礼を手で受け取るのも、あまり好ましくないとのことだった。相手が白衣のポケットに入れてくれるのが、いちばんありがたいというのだ。ボクも手で受け取らないようにしたら、ある患者さんの奥さんが、「どうぞ」と繰り返すばかりで、お互い動きが取れなくなった。それで、つい右手で自分のポケットを触ってしまった。奥さんははっと気づいて、熨斗袋をポケットに押し込んだが、我ながらさもしくて、次からは手で受け取るようにした。

 お礼の額は、だいたい1万円から3万円。手術を執刀する指導医には、もっと高額が渡されていたと思う。

 研修医なのに10万円のお礼をもらった者もいた。彼は丈の短いケーシースタイルではなく、裾の長い白衣を着流すように羽織っていた。ボタンも止めず、病棟の廊下をゆっくり歩き、しゃべり方もどことなく偉そうだった。

 お礼を手渡すとき、患者さんは彼にこう言ったという。

「ほかの患者さんは、みんな新人みたいな先生なのに、わたしだけベテランの先生に診ていただいて、感謝しています」

 彼は指導医にまちがわれたのだった。医シャもハッタリが大事と気づいた一件だった。

 患者さんのお礼は、もちろん全員からあるわけではない。はじめのころ、続いてお礼をもらったので、次の患者さんが退院するとき、土曜日だったが、用もないのにボクは研修医ルームに残っていた。そろそろかなと思って詰所に行くと、看護師に、「あの方、もう退院されましたよ」と言われた。ニヤリと笑った看護師の顔には、(お礼を期待してたんでしょうけど、残念でした)と書いてあった。

 患者さんのお礼が問題視されたのは、お礼を渡したくても、経済的な理由で渡せない人が、冷遇されるのではないかという危惧からだろう。だが、医シャの側から言わせれば、お礼の有無で医療の内容を変えることなどまずあり得ない。治療法はガイドラインでほぼ決まっているし、仮にお礼がないからといって、手抜き医療で容態が悪化すれば、苦労するのは自分だから、到底、割に合わない。お礼をもらったから、特別にいい薬を使うなどということもあり得ない。せいぜい病室で愛想のいい顔が増えるくらいだ。

 しかし、世間の疑心暗鬼には侮れないものがあるようだ。

 後年、ボクは外務省の医務官という仕事で海外の日本大使館に勤務したが、ある書記官にこう言われた。

「うちは両親ともがんになったのですが、母親は主治医にお礼をしなかったから亡くなりましたが、父親はお礼をしたので助かりました」

 インテリと目される外務省の書記官にしてこうなのだから、お礼が横行していたときには、不安を抱えていた人も多かっただろう。

 そういう状況を改善するためにも、お礼を廃するのはいいことだ。しかし、それなら医シャの報酬を増やさなければならない。それまでの医シャは、お礼も収入の一部と考えて激務をこなしていたのだから。激務の量は変わらないのにお礼を廃すると、実質的な賃下げになる。

 そもそも、お礼は気持ちの表れだろう。言葉だけでなく、何らかの形で示したいという人もいるはずだ。懸命な努力で病気を治してもらったり、親身に治療してもらったりすれば、何かお返しをしたくなるのが人情だ。そういう思いまで一律に制限するのは、何か世知辛い気がしないでもない。