8月に入ると、受け持ちの患者さんが増えて多忙になった。
定期的に開かれるカンファレンスや回診のほか、患者さんごとに手術前の検査や準備、本番の手術とそのあとの管理や家族説明などがいろいろあって、とても定時には帰れず、それどころか大学病院に泊まり込みでないと仕事が片付かない日も増えてきた。
にもかかわらず、ボクの頭の中は、相変わらず小説の執筆が重要で、新婚生活ももちろん大事で、病院の仕事に全力投球できていなかった。ほかの研修医たちは、病院の仕事に全精力を注ぎ込んでいたが、ボクは均等配分していたとしても、傍目には仕事1/3、新婚生活2/3(小説のことは秘密にしていたので)に見えたかもしれない。新婚ボケの落ちこぼれと思われたのも致し方ない。それでも、ギリギリ最低限のことはしていたから、面と向かって叱責されることはなかったが、指導医の間では評価はたぶん最悪だった。
特に肝臓病をメインにする肝胆膵疾患のグループには評判が悪かった。7月のはじめに、エンボリゼーションで腫瘍を壊死させた肝臓がんのSさんの手術が、いよいよ近づいてきて、講師のO先生(ボクにいじめのような患者観察を命じた人)をはじめ、グループの指導医たちはかなり不安に思っていたようだ。
というのも、エンボリゼーションをしたSさんの手術は、いわば新療法で、教授をはじめ医局全体の注目度が高かったからだ。Sさんの手術は肝臓の約2/3を切除する大がかりなもので、術前準備にも術後管理にも高度なレベルが要求される。ダメ研修医のボクが、それを問題なくやりおおせるかどうか心配だったのだろう。
手術の少し前、O講師は病棟の詰所に来て、Sさんのカルテをチェックし、ボクに「君はあんまりカルテを書かんな」と言った。ほんとうは怒鳴りつけたかったのだろうが、それでさらにやる気をなくされると困るので、遠まわしに発破をかけたようだ。
ボクが例によって「はあ」と生返事で応えると、O講師はムッとした顔で、それ以上何も言わずに引き上げていった。
手術の当日は、研修医が止血の結紮に手間取ると出血量が多くなるという理由で、ボクは肝臓の切除がはじまると結紮をさせてもらえず、ずっと術野を確保するための鉤引きをやらされた。
手術は無事に終ったが、術後管理が大変で、6日間、病院に泊まり続けでいろいろな処置に忙殺された。
1週間後、ホルマリン固定したSさんの肝臓を切開して、エンボリゼーションの効果を見る「切り出し」が、医局の研究室で行われることになった。打ち合わせのとき、指導医たちはやる気のないボクを完全に無視したまま話を進め、O講師も「君は来なくていいから」と言った。すると、グループの若手だったM先生が、「それはかわいそうやろ」と割って入り、ボクも切り出しに呼んでもらえることになった。
このとき、M先生はアメリカの留学から帰国したばかりで、大学病院の事情がよくわかっていなかったのかもしれない。だから、ボクがダメ研修医だったことにも気づいていなかったようだ。
この手術の少し前にも、別の患者さんにシャント手術(血漿交換のために、動脈と静脈をつなぐ手術)をするとき、M先生がボクの指導医になって、ほとんどの処置をさせてくれた。そのときはありがたくて、かなりやる気が出た。
切り出しに呼んでくれたM先生の温情には感謝すべきだったが、ボクは小説に気持ちが向いていて、外科医として評価されたいという思いもなかったので、どちらかと言うと有難迷惑だった。今から思うと、恩知らずもいいところだが、切り出しも熱心に見ることなく、終ったらすぐに病棟に引き上げた。せっかくの機会を与えてもらったのに、M先生には申し訳ないことをしたと思うが、当時はそんな配慮もできなかった。
その後、M先生は第二外科の教授になり、さらに日本外科学会や日本医学会の会長などを歴任する大物になった。ボクがせっかくの親切を無にしたことは、たぶん覚えていないだろう。