[20]M先生のこと

 研修医生活からははずれるが、ダメ研修医に温情をかけてくれたM先生のことを少し書いておこう。

 第二外科の研修を終えたあと、ボクは麻酔科の研修医になり、その後、入局しないまま大阪府立成人病センター(現・大阪国際がんセンター)の麻酔科に2年間、勤務した。

 麻酔科のほうが小説を書く時間が取れるだろうと思ったからだが、やっぱり外科医にもどりたくて、第二外科に改めて入局をお願いした。当時、教授は神前五郎先生から森武貞先生に代わっていて、面接に行くと、「入局してもいいが、医局の方針には従わないといかんぞ」と釘を刺された。よほど勝手なことをしそうなヤツと見られたのだろう。

 医局からの派遣で、神戸掖済会えきさいかい病院の外科に勤務することになったが、3年後、自分で勝手に外務省に入ることを決め、医局には事後報告で海外勤務に出た。森教授のヨミが当たったわけだが、クビを宣告されることはなかった。

ボクは医務官という仕事で、サウジアラビア、オーストリア、パプアニューギニアの日本大使館に約9年間勤務したが、40代になってそろそろ日本に帰ろうとしたとき、勤務先がなかなか見つからなかった。

 それでダメ元で、第二外科の医局に紹介してもらうことを考えた。長い間、勝手なことをしたので、断られるかもしれないと思ったが、とりあえずパプアニューギニアから連絡すると、当時、教授になっていたM先生は、外来の診察中にもかかわらず電話に出てくれ、「とにかく一度顔を出せ」と言った。

 外務省をやめて、9年ぶりに大学の医局を訪ねるとき、ボクはそれまでとはちがう緊張感を抱えていた。海外勤務の間も小説を書くことはやめず、文芸雑誌の新人賞に応募して、最終候補には何度かなったが、受賞には至らず、年齢も42歳になっていたので、作家になれるかどうかの瀬戸際に追い詰められていた。ここでもし医局から勤務先を紹介してもらえても、多忙な病院勤務だと、執筆の時間が取れなくなる。それでは困るので、M教授に面会するとき、ボクは本音で勝負することにした。

 すなわち、こう言ったのだ。

「長年、不義理をして申し訳ありませんでした。就職先の斡旋をお願いしながら、こんなことを言うと怒られるかもしれませんが、ボクは小説家になりたいので、勤務があまり忙しくないところをお願いします。できれば週の半分くらいの勤務で」

 馬鹿野郎、ふざけるな! と罵倒されるのを覚悟して頭を下げた。当然だろう。ほかの医局員たちは、それこそ私生活を犠牲にする忙しさで、日夜、大学病院や関連病院で激務に勤しんでいるのだ。M教授自身も、診療、研究、教育の重責を担い、医局運営で連日多忙をきわめている。ボクひとりが小説家になりたいなどと、寝ぼけたようなことをほざいて、受け入れられるわけがない。

 いつ雷が落ちるかと緊張しながら低頭していると、M教授はしばし困惑の沈黙のあと、こうつぶやいた。

「おまえは自由でええな」

 意外な言葉に、思わず返事ができなかった。顔を上げると、教授室の雑多な書類や雑誌などが改めて目に入った。時代が変わり、かつて権力と名誉と富を一身に集めていた教授の地位が、社会の批判にさらされ、責任と役割ばかりの職になっていたのだ。厳しい競争を勝ち抜き、自ら望んで就いた教授職ながら、M教授はその多忙さ、窮屈さ、煩雑さに、おそらく疲れていたのだろう。そこに40歳をすぎて夢見るようなことをボクが臆面もなく口にしたので、先の一言が洩れたのではないか。

「で、どんなところに就職したいんや」

 そう聞かれて、とっさに「拘置所なんかであれば」と答えた。第二外科が持っているポストに、大阪拘置所の医務部があり、医局員を派遣していた。拘置所の医者ならふつうの病院より時間はあるだろうし、収容されている人たちにも興味津々だ。

「わかった。あとは医局長と相談しろ」

 それで面談は終わり、後日、医局長と相談することになった。ボクには奇跡のような展開だった。

 しかし、医局長は教授ほど甘くはなく、むしろかなり不快そうな応対で、拘置所の話はNGとなり、ヒマがいいなら高齢者医療のクリニックに行けと、デイサービスのクリニックを紹介された。拘置所に行けなくなってがっかりしたが、人間万事塞翁が馬、6年後、そのクリニックをモデルにして、『廃用身』という小説でデビューできたのだから、人生はわからないものである。