・保険本人自己負担ゼロ。
今からはとても考えられないが、ボクが研修医になった当時は、健康保険(現在の職域保険)に加入している本人は、医療費の自己負担がゼロだった(家族はたしか1割負担、国保は本人家族とも1割負担)。
だから、自分の薬が必要になったときは、受け持ちの保険本人の患者さんに処方して、処方箋に「主治医渡し」と書いておくと、看護師がこちらに渡してくれた。
風邪をひいたときなど、PL顆粒やダンリッチなどを処方したが、自分も保険本人なので、別に医療費をごまかしているわけではない(因みに、ダンリッチは脳出血の危険ありとして、後に製造中止になった。眠気の副作用はあったけれど、鼻水止めに抜群の効果があったので残念だった)。
国民皆保険の達成は1961年で、1973年から70歳以上の自己負担がゼロになり、病院の待合室が高齢者の社交場となって、病院に来ないと、「あの人、どっか悪いんとちゃうか」というような冗談が出るほどになって、医療費を押し上げた。
保険本人の自己負担ゼロも同様で、1984年からは本人でも自己負担1割になった。それまでタダだったものが、1割負担になって、世間の反発は大きかったが、1割では間に合わず、その後、2割、3割となったのは周知の通り。タダほど高くつくものはないということか。
・二重カルテ。
第二外科の医局に留学していたマレーシア国籍のR先生が、咽頭がんになって、診断がついたときにはすでに肺に転移していて、末期の状態だった。
当時は本人にがんの告知をしない時代で、R先生はがんであることは自覚していたが、肺に転移していることは告知されていなかった。R先生は第二外科の病棟に入院し、指導医に信頼の厚い研修医のYが受け持ちになった。抗がん剤の治療がはじまったが、効果はなく、症状は増悪する一方だった。R先生は詰め所に来て、自分のカルテを見るので、病状の悪化を隠すため、二重カルテが作られた。
検討会で、R先生の先輩に当たる指導医が、R先生の胸部X線写真を示して、「どんどん悪くなってる。どうしたものか」と、悲愴な顔をしていた。
Yに「どうや、本人は気づいてないか」と聞き、Yは「まだ大丈夫みたいです」と答えたが、バレるのは時間の問題のようだった。
その後、R先生は亡くなり、Yは葬儀に出席した。
二重カルテまで作って、患者を欺くのは、思いやりなのか、欺瞞なのか。いずれにせよ、今では考えられないことである。
・医療ミス。
ボクの受け持ち患者さんではなかったが、乳がんの疑いと診断された女性の手術で、乳房のしこりががんかどうかを、麻酔をかけてから確認したケースがあった。通常は手術の前に調べるのだが、たぶん、がんの疑いは濃厚なものの、はっきりしなかったのだろう。それで全身麻酔をかけて、乳房切除術の用意をしてから、念のためにしこりだけを摘出して、病理検査に出した。
たまたまボクは横で見学していたのだが、検査の結果が出るまで、執刀医たちはすることがない。5分、10分、15分と時間が流れても、結果はなかなか返ってこなかった。
しびれを切らせた執刀医が、「たぶん、がんにまちがいないやろ。切除をはじめよう」と、女性の胸の切除する範囲に大きくメスを入れた。
その直後に病理部から連絡が来て、「良性」との判定が告げられた。
慌てた執刀医は、「そんなはずないやろ」と、病理部に問い合わせたが、判定は覆らなかった。患者さんはまだ20歳代だったはずだ。その白い胸に、紡錘形の大きな傷を負わせてしまったのだ。明らかな医療ミスで、申し開きのしようもないが、執刀医はせめてもの償いに、メスで切り裂いた皮膚を、極細の糸でふだんの何倍も丁寧に縫合していた。それでも明瞭な傷跡が残ることは避けられない。
その後、患者さんと家族にどう説明したのかはわからないが、少なくとも訴訟になったという話は聞かなかった。示談になったのかもしれないが、これも今では考えられないケースだ。
当時、大学病院の権威は絶大で、医療ミスがあっても、患者さん側がごまかされたり、泣き寝入りさせられたりすることも少なくなかったのではないか。その後、各地に大学病院で、患者の取りちがえや、臓器の切りまちがいなどという単純ミスが発覚し、権威が地に落ちて訴訟も増えた。
それがいいのか悪いのかわからないが、権威はやはり怪しいと思ったほうがいいようだ。