画家になりたいなら芸大、音楽家になりたいなら音大、芸人になりたいなら吉本の養成所と、それなりのコースがあるが、小説家になりたいならどうすればいいのか。考えてもわからなかった。大阪には「大阪文学学校」というのもあったが、ネットもない時代で、情報もなく、ずっと孤軍奮闘、五里霧中の状態だった。
学生時代には、文芸雑誌の新人賞に応募したこともあったが、純文学系と大衆小説誌のちがいもわかっておらず、一次選考にさえ引っかからなかったので、早々にあきらめていた。
そんなとき、大阪梅田の紀伊國屋本店の奥に、「自費出版コーナー」というのを見つけ、学生の小遣いでもまかなえそうだったので、大学6年の夏に、『PAUL』というタイトルで短編集を100冊作った。B6版(週刊誌の半分)で、86ページ。中身は学生時代に書きためた短編6作。タイトルの由来は、敬愛する画家のゴーギャンから拝借した。
表紙は19世紀にイギリスで出ていた挿絵入り文芸誌「The Yellow Book」を模して、黄色字に黒一色のデザインにした。木版で何かをつかもうとする両手を彫り、周囲にはゴーギャンばりの紋様を入れた。
大学に合格したあと、ボクは最初の5年間は勉強そっちのけで、小説の習作と、サッカー、映画にデート、飲み会、一人旅などに明け暮れ、気楽な大学時代を謳歌していた。5回生の終わりには、1カ月ほどヨーロッパを放浪したりしていたので、6回生になったときには、学業が同級生に比べそうとう遅れていた。そのため、卒業試験と翌年の国家試験に備えて、猛勉強をしなければならなかった。
記憶の中では、4月から死にものぐるいで勉強したつもりだったが、7月に『PAUL』を出しているところを見ると、案外、そのころまでは片手間だったのかもしれない(夏休み以降は、文字通り死にものぐるいだったはずだけれど)。
自費出版コーナーでは、本の販売もしてくれ、1冊700円で30冊ほど置いてもらったら、間もなく完売した。続けていれば、ひょっとしてプロの編集者の目に留まり、デビューということもあり得るのではないか。そんな思いで、第二集も出そうと考えた。
しかし、大学卒業後は、青木繁を主人公にした長編にかかりきりで、研修医の仕事も忙しく、新たに短編を用意するのがむずかしかった。そこで、新作は2編のみにして、『PAUL』に収録できなかった学生時代の短編6つを、少し手直しして入れることにした。前作と同じく、B6版で98ページ。タイトルの『AUBREY』は、「The Yellow Book」の表紙を描いていた挿絵画家、ビアズレーから取った。表紙もビアズレーふうの黒の目立つ極端な遠近法のイラストにした。
出したのは年末で、前作同様、自費出版コーナーに置いてもらうと、30冊が割と早くに売れた。しかし、当然ながら、編集者や出版社からの連絡はなかった。
ここであきらめてはならじと、麻酔科の研修医になった翌年にも第三集を出した。同じ判型で、短編6作、112ページ。タイトルの『FRANZ』は、カフカから頂戴した。タイトルに人名をつけたのは、作品集を我が子のように思っていたからだが、そんな幼稚なことをしていたから、なかなか芽が出なかったのだと今では思う。
第3集の表紙のイラストは、ヴィスコンティの『ルードヴィヒ』の一場面を、半分自画像ふうにアレンジした。
あとがきにはこうある。
『もし、このまま作品集を出していくとすれば、次からは長い暗黒時代にはいるでしょう。四集、五集を出していくことを考えるとぞっとする。完全な孤独のままで、そのような惨めさに、人は耐えて行けるものでしょうか?』
暗闇の中をひとりで手探りしているのがよくわかる文章で、今読んでも痛々しい思いに駆られる。
あとがきには、続けて自費出版本を出すつもりのように書いているが、実際には第3集で終わった。作品集を買ってくれた人が手紙をくれて、もし小説家になりたいと思っているのなら、同人雑誌に入りなさいと、アドバイスをくれたからだ。丁寧にいくつかの同人雑誌の主宰者名と連絡先まで書いてくれていた。
そこでボクは、地元の堺に発行所がある「文学地帯」という同人雑誌に加入を申し込み、作品を発表するようになった。さらに「VIKING」という芥川賞や直木賞の候補者がゴロゴロいる雑誌に移り(山崎豊子、高橋和巳、津本陽などが元同人)、「文學界」や「新潮」などの商業雑誌の新人賞にも応募し、計4回、最終候補にまでなったけれど、受賞には至らなかった。候補作のひとつは「新潮」に掲載されたけれど、それでおしまい。
そのあと、48歳のデビューまで、長い長い暗中模索の日々が続くのだった。