医療の仕事には光と影がある。
光の部分は患者さんの病気を治し、命を救うことで、影の部分は不治の病にかかった患者さんの死に向き合うこと。多くの人は光の部分を好むが、影の部分があたかもないかのように振舞うのは、能天気な欺瞞だと思う。
死に至らなくても、患者さんの不幸はいくらでもある。麻酔科の研修医時代に出会ったひとつに、網膜芽細胞腫があった。網膜の細胞ががん化したもので、放っておくと転移して、患者さんを死に至らしめる。だから多くの場合、治療は眼球を摘出することになる。
ボクが担当したその患者さんは、5歳の男の子だった。手術の前日、術前回診で眼科の病棟に行くと、男の子はベッドの上で幼児用のレゴで遊んでいた。
病室には、母親と祖母が付き添っていた。ボクは手術のときに麻酔をかける者だと自己紹介をして、全身麻酔について2人に説明した。母親と祖母は目を真っ赤に泣きはらしていた。それはそうだろう。今、横のベッドで無心に遊んでいる子どもが、明日、片目を失うのだ。命を救うためとはいえ、何も悪いこともしていない無邪気な子どもが、なぜ、そんな酷い目に遭わなければならないのか。
当の男の子は、もちろん明日、自分が片目を失うなどということはわかっておらず、カラフルなレゴを一生懸命、組み立てたり壊したりしていた。ボクが話しかけても心ここになしといったようすで、逆にうまく組み合わせた部品を高々と掲げて、ボクに見せてくれたりした。
ボクは心に重いものを感じ、この世の理不尽を思って気持ちが沈んだ。
網膜芽細胞腫は小児がんの一種で、がんの中では生存率が高いらしいが、それでも両親や祖父母には、眼球摘出という治療はつらいにちがいない。疫学的にも、国内で年間80人程度と言われるこの病気に、なぜうちの子が、うちの孫がという思いも拭いがたいだろう。ここにはドラマも奇跡もハッピーエンドもない。
翌日、手術室に運ばれてきた男の子は、病棟でのまされた前投薬がよく効いたのか、ほとんど眠った状態だった。それでも小児麻酔の基本通り、ゴムマスクで麻酔ガスを嗅がせ、十分眠ったところで、点滴のルートを確保する。そのあと、筋弛緩剤を投与して、気管内挿管。小さなペニスに極細の導尿カテーテルを挿入し、眼球摘出の手はずは整う。
眼科の手術では、術野は目なので、麻酔科医は患者さんの頭側ではなく、身体側に座ることになる。手術をする目の部分以外は、緑色の滅菌布で覆われ、顔もほとんど見えなくなる。すると、気管内チューブが折れ曲がったり(小児用のチューブは細くて柔らかい)、少しずつ抜けたりした場合、命に関わるので、麻酔器から伸びる蛇腹に沿って、覆布をトンネル状に持ち上げ、口の部分だけ見えるようにする。
そうやって準備が整うと、いよいよ手術のはじまりとなる。男の子が目を閉じると手術ができないので、目の周りにステンレスでできた枠をはめ、上下のまぶたを引っかけて開いたまま固定する。それを見て、ボクは映画「時計仕掛けのオレンジ」の一場面を思い出した。不良少年のアレックスが、人格改造のため、残酷な映像を見せられるときに、目を閉じないようステンレスの枠をはめられ、横からスポイトで涙代わりの生理食塩水を補充される場面だ。
執刀する眼科医は、5歳の子どもの片目を取ってしまうことを、どう考えているのか。酷いとか、かわいそうとは思わないのか。
まだ2年目の研修医で、ふつうの感覚が少し残っていたボクはそう考えたが、執刀医たちは医療以外の発想はないらしく、あくまで治療のための眼球摘出という作業に徹していた。そうでなかったら困るだろう。センチメンタルな気分で手術などすれば、手元が狂ったり、思わぬ判断ミスをしたりする危険性があるのだから。
無事に眼球を摘出したあと、執刀医は腫瘍の状態を見るために、その場で取り出した眼球に割面を入れた(真っ二つに切るということ)。眼球の内側は真っ黒だった。網膜を包む脈絡膜にメラニン色素が豊富なためで、青い目でも茶色の目でも緑がかった目でも、瞳孔はすべて黒であることを納得した(目の色は虹彩の色で、瞳孔は眼球の内部を見ているので黒い)。
そこでふと思った。昨日、病室のベッドで無心に遊んでいた5歳の男の子から取り出された眼球を見て、瞳孔や虹彩の色に意識が向いたボクは、すでに一人前の医者になりつつあると同時に、ふつうの感覚を失いかけているのではないか。
それは必要なことかもしれないが、淋しいような、恐ろしいような気もした。