[57]医療ミスと責任者

 研修医は新米だが、指導医にも新米がいて、はじめのうちはその日の麻酔責任者であるライターをさせてもらえない。

 T先生は少し回り道をして医者になったらしく、指導医としてはさほど若くなかったが、この日、はじめてライターに任命され、照れと緊張の面持ちで、朝の検討会でライターの席に座っていた。ふだんは無口だが、秘めたユーモアがあり、研修医にも親切だったので、ボクはこのT先生が好きだった。

 たとえば、T先生は小児麻酔で気管内チューブを抜くときに、ヨダレが手につくとこう言った。

「子どもは得やの。ヨダレがついても汚いと思わんんからな」

 だれに言うわけでもなく、ボソッとつぶやくのである。

 出世欲や上昇志向とは無縁のT先生だったが、この日ははじめてライターを任されて、T先生なりに張り切っていたのだろう。検討会を仕切る声も、いつもよりやや高い気がした。

 検討会が終ったあと、ボクは自分に割り当てられた麻酔をかけていたが、少しすると廊下で慌ただしく人の行き来する気配があった。どうやら、麻酔事故が起きたらしい。

 あとで同僚に聞くと、重大事故があったようだ。顛末は以下の通り。

 研修医のSさん(女性)が子どもの麻酔をかけていて、気管内挿管を無事に終え、人工呼吸器につないだところに、ベテラン指導医のT先生(ライターのT先生とは別人なのでT1)が来て、Sさんに講義をはじめた。T1先生は優秀かつ話好きで、ことあるごとに研修医に麻酔の理論やテクニックについての解説をしてくれていた。兄貴分みたいな存在で、厳しさと優しさを兼ね備えた指導医だったので、研修医にも人気があった。ときに話が長くなるのが欠点だったが、親切で話してくれているのもわかるので、研修医はじっと耳を傾けるのが常だった。

 このときも、SさんはT1先生の話を素直に聞いていた。気管内挿管のあと、吸入麻酔剤を投与すると、呼吸は人工呼吸器に任せているので、手術がはじまるまでの間、麻酔科医は特にすることがなくなる。T1先生も余裕をもって、Sさんに小児麻酔の話をしていたようだ。

 ところが、はっと気づくと、覆布の下で気管内チューブが折れ曲がり、酸素が十分、肺に入らない状態になっていた。通常、そうなるとふつうは人工呼吸器のアラームが鳴るはずだが、このときはなぜか鳴らなかった。急いで100%の酸素吸入に切り替えたが、子どもは低酸素脳症になり、麻酔を切っても意識がもどらなかった。脳死ではないが、いわゆる植物状態になっていたのだ。

 T1先生としては、痛恨のミスだったろう。Sさんも指導医の話に熱心に耳を傾けていたのは致し方ない。本来なら直接、麻酔を担当しているSさんに責任があるところだが、研修医は半人前扱いなので、面と向かって責められることはなかった。

 代わりに責任を負ったのは、この日のライターT(T2)先生だった。研修医から見ると、事故が起きた原因は、麻酔中に講義をはじめたT1先生にあり、なおかつT1先生はT2先生よりも年齢も立場も上なのだから、彼が後始末をすべきだろうと思ったが、その後、家族との交渉や病院幹部への説明などは、すべてT2先生が行った。

 T2先生としては、まったく不運としか言いようがない。しかし、彼は責任感が強く、はじめてであれ何であれ、自分がライターになったからには、すべての責任は自分が負うべきだという態度だった。

 その後、この件は間に弁護士が入って、裁判にはならなかったようだが、横から見ていてT2先生の心労はほんとうに気の毒だった。

 麻酔科というのは踏切番みたいなものだと、ある指導医が言っていた。100%無事故が当然で、むずかしい麻酔を無事に終えても、ほめられることはないと。

 さらには、直接、病気を治すわけでもないから、患者さんからも感謝されることはほとんどない。それを損な役割と思わず、やり続けるインセンティブはどこから得られるのだろう。

 ボクは自分の将来を考え、このまま麻酔科医として生きていくか、外科医にもどるべきか迷っているときだったので、複雑な思いに駆られた。