第二外科での研修のあとはどうするのか、道は大きく分けてふたつあった。
ひとつは第二外科に入局して、関連病院に派遣される道。これはほとんどの研修医が進むコースで、一人前の外科医になるため、多忙な毎日をすごすことになる。平凡だが安全な選択で、同期にも遅れを取らないですむ。しかし、小説家になることを目指すならどうか。ヒマな病院に派遣されればいいが、忙しい病院に行かされると、小説を書く時間が取れなくなる。
今ひとつの道は、麻酔科の研修医になることで、麻酔の技術を習得することは、外科医としても有益なので、1年先輩のオーベンたちも2人が麻酔科に進んでいた。
麻酔科は受け持ち患者がいないので、手術がすめば病院から解放される。休日や夜中に呼び出されることもない。おまけに麻酔科では、平日の1日を「研修日」と称して、休みにすることができたので、小説を書く上では願ってもない要件だった。
もし麻酔科に進むのなら、ボクは月曜日を研修日にしようと考えていた。当時、土曜日は午前中出勤だったので、休みは日曜日だけだった。たまに月曜日が祝日だと、連休になって大いに喜んだものだ。それが月曜日を研修日にすれば、毎週が連休になるのである。小説を書くにも遊ぶにも、これほどの好条件はない。
そこでボクは麻酔科に進もうと思ったが、これにもふたつの道があった。
2年目の研修医は定員が3人のところに7人の希望者がいるので、ひとつはクジで決めるという道。今ひとつは、はじめから2年間、麻酔科で研修を受けると約束すれば、優先的に研修枠に入れてもらえるという道だった。クジにはずれて外科の多忙な病院に行かされるのは困るが、2年も麻酔をやると、外科医としては大きな遠回りとなる。
そのまま麻酔科に残れば、留学のチャンスもあるし、子どもができたら家族サービスの時間も取りやすい。だが、当時は麻酔科の常勤ポストがある病院は限られていて、就職先が不安定な上、収入もさほど多くない。病院に所属しないフリーの麻酔科医になる道もあるが、これは自由で高収入だが、いわば根無し草で不安定きわまりない。
生活、収入、小説、外科医への未練もあり、自由はほしいけれど、安定も捨てられないという自己撞着に陥った。
小説家になることについては、研修医のうちにデビューできなければ、医者として働きながらでは、十分に小説に打ち込めないのではという心配もあった。だから日々、焦っているのだが、家庭もあるので、臆病ながら安全な道を行ったほうがいいという思いと、挑戦できるのは若いうちだけだと、自分を鼓舞する思いもあって、気持ちが乱れて答えが出せなかった。
妻に相談すると、「あなたの好きな道を行けば」の一言で、冷たいのか信頼してくれているのか、はたまたボクの人生になど興味がないのか、状況を説明しかけると、「そんなこと、クドクド考えても仕方ないわよ」と一蹴され、やはり自分で決めるしかないと肚をくくらされた。
結果、選んだのは、はじめから2年麻酔科にいる約束で、優先的に研修枠に入れてもらう道だった。やはり決め手は小説を書く時間がいちばん多く確保できるということである。
そのあと、土曜日の午後に医局の有志でテニスをしたとき、指導医のK先生に、「おまえ、次はどうするんや」と聞かれたので、「麻酔科に行きます」と答えると、「麻酔科? あんなもん、外科医の奴隷やないか」と、さも蔑むように言われた。
たしかに、麻酔科医は手術が続いている間は外科医の言いなりにならなければならない。それどころか、手術の前から患者さんに麻酔をかけて準備をし、手術がすんで外科医が手を下ろしたあとも、麻酔をさまして、患者さんを手術室から送り出さなければならない。それで病気を治すという手柄は、すべて外科医が持っていく。
しかし、麻酔科医がドクターストップをかけると、手術そのものができなくなるので、手術前は外科医も「よろしくお願いします」と低姿勢になる。手術が終わったあとも、麻酔科医につむじを曲げられると次の手術がやりにくくなるので、「ありがとうございました」とやはりていねいに応じる。しかし、心の中では外科医はそんなふうに思っているのかと、軽いショックを受けた。
K先生は後に教授候補にもなった優秀な外科医で、手術だけでなく卓球やテニスもうまかった。オシャレで研修医にも人気があったが、優秀であるがゆえに、自信家でやや高慢なところがあったようだ。
「外科医の奴隷」などという過激な言葉を使ったのは、個人的にダメ研修医のボクにムカついていたからかもしれない。ボクの父は麻酔科の草分け的な医者だったが、K先生はもちろん知らなかったのだろう。知ったらどんな顔をするかと思ったが、何も言わずに曖昧な笑みだけ返した。