[12]のんきな研修医

 研修医の同僚はまじめで熱心な者が多かったが、1人、Oというのんきな研修医がいた。Oはボクと学生時代から仲がよく、よく飲みに行ったりスキーに行ったりした。

 研修医になってからも、息抜きの相手は彼が多かった。仕事の手が空くと、「ちょっとコーヒーでも」と、院内の喫茶部に下りていく。そこでバカ話をして憂さを晴らすのである。

 Oはボクの結婚式にも来てくれていたから、妻のことも知っていた。「新婚生活はどうや」と聞くので、「うん、世の中がバラ色に見えるな。ピンクのサングラスをかけてるみたいや」と答えると、「ひえ~っ」と悶絶していた。

 彼は我が家の来客1号でもあった。

 勤務を終えたあと、Oの車で我が家に向かったが、着替えるのが面倒だったので、2人とも白衣のまま車に乗った。ところが、Oの車はオンボロの中古車で、今では考えられないが、交差点の真ん中でエンストしてしまった。いくらセルをまわしてもスタートしない。信号が変わりそうになったので、ボクが慌てて外に出て、後ろから車を押した。街中で白衣姿で車を押すボクと、白衣姿でハンドルにしがみつくOは、周囲からはそうとう奇異に見えただろう。

 その後も何度もエンストしながら、予定時間に大幅に遅れて我が家に到着した。ご馳走を用意していた妻をずいぶん待たせたが、Oのとぼけた話で妻も大笑いし、楽しいひとときを過ごした。

 食事のあと、Oが帰ろうとしたら、今度は本格的にエンジンがかからなくなった。仕方なく、Oは我が家に泊ることになったが、そのつもりで準備をしていなかったからか、寝るときに服を脱ぐと、ランニングシャツの背中に虫食いの穴が開いていた。それを見た妻は、「ものぐさなOさんらしい」と、また大笑いした。

 人のことは言えないが、Oはボク同様、あまり医療に熱心でなかった。

 患者さんの血液検査で、ナトリウム、クロール、カリウムなどの電解質を計るが、この値が下がると、さまざまな障害が起こるので、補正しなければならない。指導医はこの補正を論理的に行うよう求めた。すなわち、電解質の検査値と全血量からトータルの電解質量を求め、尿の電解質濃度と尿量から1日の排泄量を割り出し、不足量を計算して点滴で補うのである。いかにも論理的だが面倒臭い。

 指導医はさらにデータの先を読んで、早めに処置しなければならないと言っていた。だから、熱心な研修医は頻繁に血液検査をして、不足に傾くと素早く計算して、補正に努めた。

 ものぐさで、医療に消極的なOは、そんなことはしない。あるとき、Oの受け持ち患者のカリウムが、正常値のギリギリまで下がっていた。指導医の教えに従うなら、すぐ再検査をして、補正の準備をしなければならない。

「どうするんや」と聞くと、Oは「ちょっとようすを見る」と言った。

「再検査はせんのか」と聞くと、「再検査して、正常値より下がってたら、面倒くさい計算をせなあかんやろ」と言う。

 いやいや、それは必要やろと、ダメ研修医のボクでさえ心配したが、Oは悠然と構えていて、3日後くらいにようやく再検査をしたので、「どうやった」と聞くと、「正常値にもどってた」との答え。彼は人間がもつ自然な回復力に信頼を置いているのだった。

 Oは決して熱意のある研修医ではなかったが、不思議と彼の受け持つ患者さんは順調に退院する人が多かった。

 逆に熱心にあれこれ工夫し、積極的な医療をする研修医にかぎって、患者さんは手術後に重症化したり、思わぬ合併症を引き起こしたりした。医療はやればいいというものではないと、横で見ていて思ったが、医学を信奉している研修医たちには、前向きな考えしかできないようだった。

 当時はまだ医療がイケイケの時代で、がんの手術ではできるだけ広範囲に切除したほうが再発しにくいという思い込みから、臓器を取り過ぎて患者さんが亡くなったり、寝たきりになったりしていた。抗がん剤も強力に投与して、副作用で患者さんの体力を奪ったり、場合によっては余命を縮めたりした。

 それではいけないというので、今は温存手術や待機療法が見直されている。Oの消極的医療は、それを先取りしていたのかもしれない。

[11]恐怖のウイルス感染

 研修医の仕事はキツイ、キタナイ、キケンの3Kである。

 キツイは言うに及ばず、キタナイは患者さんの糞尿や痰を間近に扱うからで、キケンは針刺し事故である。まだHIV(エイズウイルス)が問題になる前の時代だったから、恐怖の対象はもっぱら肝炎ウイルスだった。

 当時、肝炎ウイルスはA型とB型までしかわかっておらず、それ以外はノンAノンBと大雑把にまとめられていた。中でも恐れられていたのはB型肝炎ウイルスで、感染すると劇症肝炎というきわめて治療困難な状態になり、あっと言う間に死ぬ危険性があった。

 針刺し事故は、注射針のキャップをかぶせるときや、採血管に血液を移すときなどによく起こった。注射器を持ったまま振り向いたりすると、自分や他人の指をかすめることもある。ウイルスはほんのかすり傷でも感染するので、血のついた針を持っているときは、全神経を針先に集中しなければならなかった。

 研修医の受け持ち患者は順番で決まるので、肝炎ウイルスがプラスの患者さんが当たっても文句は言えない。ボクも一度、劇症肝炎を起こしやすいB型肝炎ウイルスのe抗原(+)の患者さんを受け持った。肝臓がんの患者さんで、黄疸が出ていたので、すぐには手術ができず、第二内科と共同で、血漿交換という治療をすることになった。そのためにまず点滴用に太めのエラスター針を留置しなければならない。研修医にはハイレベルの処置で、細いエラスター針は入れたことはあったが、太いのははじめてだった。

 病室には第二外科の指導医2人と、第二内科の指導医と研修医がいて、このエラスター針の挿入は、指導医がやってくれるだろうと思っていた。ところがだれも手を出さない。エラスター針は内筒の金属針を血管内に入れたあと、外筒のプラスチックチューブだけを残して金属針を抜くので、出血もしやすく、針の扱いもむずかしい。だれもが二の足を踏むのは当然だった。

 すると、指導医の1人がやにわにボクに向かって、「ここはおまえがやれ」と指示した。この指導医は見栄っ張りで、我々第二外科はe抗原など恐るるに足りずという雰囲気を出したかったようだ。それなら自分でやればいいのに、ズルいヤツだ。

 ボクは覚悟を決め、患者さんの下腿に駆血帯を巻き(腕は患者さんが動かすので、この場合は不適とされた)、くるぶし近くの静脈を入念に指で探って、抜き身のエラスター針を構えた。血液に触れる前なら安全だが、いったん患者さんの皮膚を刺せば、針はウイルス感染の凶器に変わる。

 幸い、静脈はほどよく怒張していたので、基本を思い浮かべつつ、思い切って刺入した。すぐ血管に当たり、角度を考えながら針を進めて、十分入ったところでプラスチックチューブを先に進め、金属針を抜いた。血液の逆流を防ぐため、チューブの先端あたりを指で押さえ、あらかじめ用意した点滴のコネクターを手早くつなぐと、ほぼ無出血で操作を終えることができた。

「ま、こんなもんです」

 ボクに危険な仕事をさせた指導医が、何やら誇らしげに言ったので、ボクはそいつの足を蹴りそうになった。

 この患者さんはそれですんだ(結局、容態悪化で手術はできなかった)が、別の患者さんで針刺し事故を起こしたことがある。

同じく肝臓がんの患者さんで、ICG-Rmaxという短時間に何度も採血をしなければならない検査をしていたときだ。ICGという色素を注射したあと、採血の時間間隔が決まっているので、焦ってしまい、針にキャップをかぶせるときに人差し指を突いてしまった。あっと思ったが遅かった。すぐ血を絞り出して水で洗ったが、そんなことでウイルス感染は防げない。

 その患者さんはB型肝炎の抗体は(+)だったが、抗原は(-)だった。つまり、以前、感染して抗体はできたが、抗原であるウイルスは排除されているということだ。それで少し安心したが、ほかの病原体に感染している可能性は否定できない。

 そう思っていると、次に返ってきた検査で、TPHAとワッセルマン反応が(2+)だった。どちらも梅毒の検査だ。梅毒スピロヘータが針刺し事故で感染する可能性は少ないが、危険性はゼロではない。自分は不適切な行為をしていないのに、梅毒になどなったら目も当てられない。念のため、治療薬のペニシリン剤をのんだら、アレルギーでじんましんが出て散々だった。

 あれから40年たっても肝炎にも梅毒にもなっていないので、幸い、感染はなかったのだろう。

[10]すり寄るプロパー

 病棟には、病院職員でも患者さんでもないスーツ姿の一群がそこここに屯していた。製薬会社の営業マン「プロパー」である。語源は宣伝を意味するプロパガンダから来ている。

 研修医にとって、プロパーははじめて接するビジネスがらみの人間だ。営業マンだから、「先生」という呼びかけからして、患者さんや看護師のそれとはちがう。どこかヨイショの軽薄さがあり、ご機嫌伺いの卑屈さも感じられて気味悪かった。

 プロパーは自社の薬を処方してもらうために、さまざまなアプローチで研修医にすり寄ってくる。まずは景品攻勢。ボールペン、メモ帳にはじまり、ペンライト、レーザーポインター、薬のハンドブック、爪切り、ミニ工具セット、蔵書印など、実用的なものをたくさんくれる。各社がいっせいにするので、ボールペンなどあっという間に売るほどたまる。

 毎週水曜日の昼には、各社持ち回りで、薬の説明会が開かれた。カンファレンスルームで30分ほどのビデオを見せてくれるが、同時に上等の弁当が供される。まだコンビニが普及していない時代だったから、研修医の昼食は院内の食堂か、近くの定食屋などで簡単にすますことが多かった。メニューも知れているので、毎週水曜日の弁当は楽しみだった。

 プロパーはさすがに病室までは入ってこないが、ロビーやエレベーターホールに待機していることが多かった。ロビーを歩いているとすっと寄ってきて、「先生。今、どんな患者さんを受け持ってはりますの」と聞いてくる。さらに「次の手術はいつになります」と追い打ちをかけ、迂闊に答えると、「それでしたら、術後はぜひ弊社の×××をお使いください。効果は抜群ですので」などと、満面の笑みで営業トークを聞かされる。

「考えときます」と言ってお茶を濁すと、手術後、「例の患者さん、使っていただけました?」としつこく聞いてくる。病名を聞き出し、患者さんの年齢を聞いて、手術後の経過まで訊ねるので、途中から答えずにいると、「熱は38度までは出てませんよね」とか、「白血球は1万越えてます? 12千くらいですか」などと、勝手に話を進める。適当に相槌を打っていると、それをメモしているので、何だろうと思っていると、後日、会社で症例報告を行い、パンフレットのデータにも使うのだと聞いた。そんないい加減なことをされたら困るので、以後は無言で通すことにした。

 研修医の中にはプロパーと仲よくなる者もいたが、ボクはもともと人付き合いが悪いし、まとわりつかれるのもイヤだったので、プロパーから気むずかしい研修医と思われていただろう。1度だけ、あるプロパーがポール・モーリアのコンサートチケットをくれたので、妻と聴きに行った。そのあと、特別その会社の薬を使ったりはしなかったので、ムダ玉だったと思われたにちがいない。

 プロパーはほかにも論文の検索や文献集め、学会のスライド作りなどもしてくれ、便利な存在だった。さすがに研修医は雑用を言いつけたりはしなかったが、指導医の中には、平気で煙草を買いに行かせたり、車で家まで遅らせたりする者もいた。外見をいじられたり、イジメに近いことや無視をされたりしても、プロパーは決して笑顔を絶やさない。理不尽な文句を言われても、いっさい反論せずに低頭し、ひたすらご機嫌取りにいそしむ。一重に自社の薬を処方してもらうためだ。まるで奴隷か太鼓持ちのようで気の毒だったが、その精神的なタフさに感心した。

 今は製薬協(日本製薬工業協会)が自主規制で厳しいガイドラインを作り、プロパーはMR(Medical Representatives=医薬情報提供者)と呼び名を変えて、接待や景品提供はほぼなくなった。高級な弁当や会食で処方が決められるのは許せないという世間の非難を受けてのことだが、医シャの側から言わせると、患者ごとに厳密に薬を変える必要性はあまりなく、同じ効能ならどの会社の薬を使っても大差はない。だから、接待で患者に不利益な薬が処方されることは、まずないというのが実態だ。

 世間の反発で自主規制したと言いながら、利益を得たのは莫大な接待経費を削減できた製薬会社で、MRも太鼓持ちまがいのことをする必要はなくなったが、接待や景品がなくなって、面白くない医シャの中には、もうMRなんかいらないと考える者もいる。医薬情報ならネットで十分という側面もあるからだ。

 風が吹けば桶屋が儲かるではないが、医療が健全になって、医シャは旨味が減り、MRは不要論にさらされている。