[31]ヤクザの指詰め処置

 アルバイトで外科のクリニックや病院に行くと、たまに指詰めをしたヤクザが、傷の処置をしてもらいにくる。さほど珍しいことではなく、ボクは研修医の前後を含め、計4回経験した。

 ヤクザといっても相手は指詰めの直後で、凄む余裕もないし、こちらは治療を頼まれる側なので、さして恐れることも緊張することもなかった。

 傷の処置の仕方は、オーベンのK先生から教わっていた。

 指詰めの傷は、断面に骨が出ているので、そのままでは皮膚が縫えない。縫い代を作るために、骨を内側に削らなければならない。だからヤクザの患者さんには、まずそのことを説明する。

「骨を削って縫うので、今の状態よりも指は少し短くなりますよ」

 こう言っておかないと、縫ったあとで、切った長さより短くなったとヤクザが怒る危険性があるのだ。

 処置の最初は麻酔である。指の背側と腹側には、左右、計4本の神経が走っている。これを目指して、指の付け根に極細の針で局所麻酔薬を注射すると、指は完全に無感覚になり、切ろうが縫おうが、爪を剝ごうが、痛みを感じなくなる。

 こうしておいて、骨切り鋏で断面に露出している骨を、1cmほどかじり取るように削る。すると肉と皮膚に余裕ができて、縫えるようになる。が、そのままでは形よく縫えないので、“魚口状縫合”にするため、鋏で背側と腹側の皮膚を半円形に切る。そうすると、上下を縫い合わせたとき、魚の口のように先端が丸く閉じられた形になるのである。

 このときもコツがあって、自分の指を触ると分かるが、指は背側と腹側で骨と皮膚の厚みがちがう。指の背側のほうが肉が薄い。だから、背側と腹側を同じ半円形に切ると、縫い目が背側に偏ってしまう。断面の中央に縫い目がくるようにする(そのほうが恰好がいい)ためには、背側の半円を長めにするのがコツである。

 1例目の処置では、縫い目が指の背に偏ってしまったので、そのヤクザさんには申し訳なかったが、2例目からは形よく縫うことができた。医療はやはり経験がモノをいうのである。

(だから多くの人はベテランの治療を求めるが、新米の医シャの治療を受けてくれる患者さんがいないと、次のベテランが育たない。自分だけはベテランの医シャに診てもらいたいと求める気持ちには、練習はほかの患者ですませてくれというエゴイズムが潜んでいることを認識すべきだろう)

 閑話休題。

 指詰めをするのは、たいていヤクザだが、3例目は一般の人だった。外科医になってからの話だが、当直をしていると、夜中に指を詰めた人が、何人かの女性が付き添われてやってきた。どう見てもヤクザでないので、職業を聞くと、板前とのことだった。50代で丸刈りの実直そうな男性だった。ただ、顔色は真っ青で、表情は硬直し、失神寸前のように見えた。

 一応、型どおりの説明(指が今よりも少し短くなる云々)をしたが、血走った目でうなずきもせず、局所麻酔をして処置をする間も、まったくの無反応だった。どういう事情で指を詰めるハメになったのかは聞かなかったが、そのショックの大きさと、深い悲しみがひしひしと伝わってきた。

 翌日、消毒とガーゼ交換のために外来に来てもらうと、打って変わって愛想笑いなどもし、ふつうの患者さんになっていて、前夜と同一人物とは思えなかった。それくらい指詰めの当座は、精神的な衝撃が大きかったのだろう。

 4例目のヤクザは、アルバイトで外来診察をしていたクリニックに、夕方、まだ明るいうちにひとりでやってきた。

 3例目の一般人はもちろん、先の2例も舎弟か兄貴分らしい人が付き添っていたが、4例目の若いヤクザには世話をする者がいなかった。

 傷を診ると、切断したのは左手の薬指だった。小指は左右ともすでに詰めてあり、短くなっていた。つまりこの若いヤクザは、3度目の失態を演じたということになる。

 型どおりの説明をして(すでに2回も経験しているから、その必要はなかったかもしれないが)、局所麻酔をしようとうすると、若いヤクザは思い詰めたような顔でつぶやいた。

「次はもう、ぜったいにヘタ打たへん」

 ボクは黙ってうなずいたが、胸の内で思った。

 ──いやいや、悪いことは言わないから、足を洗ったほうがいい。アンタはこの業界には向いてないよ。

[30]はじめての看取り

 研修医はヒヨコ医シャなので、いろいろはじめて経験することが多い。

 その最たるものは患者さんの看取りだろう。研修医にはまだ一般人の感覚が残っているので、人の死には大きな衝撃を受ける。

 先に述べたように、大学病院は基本的に治る見込みのある患者さんを入院させるので、研修医の受け持ち患者さんが亡くなることは滅多になかった。従って、研修医が看取りに遭遇するのは、だいたいアルバイトで行く当直先の病院だった。

 はじめて患者さんを看取るときは、だれでも緊張する。そもそもどんなふうに看取ったらいいのかがわからない。オーベンのK先生は、ボクにこう教えてくれた。

「看取りのコツは、慌てず、騒がず、落ち着かずや」

 慌てると新米であることがバレるし、騒ぐと医療ミスを疑われかねないが、あまり落ち着いていると、患者さんを見捨てているように思われるから、適度な緊迫感を持てというのである。

 臨終の宣告は、いわゆる“死の三徴候”、すなわち呼吸停止、心停止、瞳孔散大を確認して行うが、これも早まるなと教えられた。

 死ぬとき、息は突然止まるのではなく、下顎かがく呼吸といって、下顎したあごを突き上げるような呼吸を繰り返し、それが次第に間遠になって、完全に止まる。そこで「ご臨終です」と告げるのだが、ときに思いがけない最後のひと呼吸がやってくることがある。すると家族が、「あーっ、まだ生きてる」と声をあげるなどして混乱する。だから、下顎呼吸が終ったと思っても、しばらく待って、もうぜったいに息をしないことが確実になってから、臨終を告げろというのだ。

 心電図も同じで、死ぬ間際には波形が乱れ、波が間遠になってやがてフラットになる。そこで「ご臨終です」と告げると、最後のひと波がピクンと現れたりして、また家族が、「あーっ、まだ・・・!」となるので、臨終を告げたらすぐに心電計の電源を切れと教わった。

 つまり、医者の告げる臨終の時刻は、実際の死より少し遅かったり早かったりするのである。

 そうやって、6月中に看取りの作法を教えてもらったが、ボクはなかなか患者の看取りに巡り会わなかった。

 研修医の中には、7月早々に当直先の病院で看取りをした者もいて、翌朝、大学病院に来ると、そのときのようすを深刻そうに語ったりした。人の死の話だから、聞くほうも自ずと厳粛な雰囲気になる。看取りを経験すると、なんとなく医シャとして箔がついたように感じられ、場数を踏むと余裕もでき、未経験者より優位に立つ雰囲気があった。

 ボクがはじめて看取りを経験したのは、研修も後半に入った初冬のころだった。代理を頼まれて行った病院で、宵の口に看護師から電話がかかってきて、患者さんの急変を告げられた。いよいよボクも看取りをするのかと、武者震いをする思いで、白衣を整え、K先生に教わった手順を思い浮かべながら、早足で病室に向かった。

 ふつう、看取りをするのは個室がほとんどだ。大部屋でとなりに患者さんがいるところで人が死ぬのは好ましくないからだ。ところが、告げられた病室は個室ではなく、大部屋だった。まちがいではないかと思いつつ、扉を開けると、ベテランの看護師が神妙な顔で、ベッドの横に控えていた。患者さんは六十代の女性で、がんの末期だったが、でっぷりした体型で、赤ら顔に縮れた毛が枕の両側に広がっていた。

「ご家族は」と看護師に聞くと、黙って首を振る。カルテを見ると、医療保険は生活保護だった。それで個室に移せなかったのだ。

 患者さんはすでに下顎呼吸で、それもほどなく止まった。K先生から教わった作法はすべて家族に向けてのものだったので、身寄りもなくたったひとりで死んでいくこの患者さんには、パフォーマンスのようなことは必要なかった。それでも、ボクは型通りに聴診器を胸に当て、ペンライトで瞳孔を照らして、臨終を告げた。

「午後8☓分。御臨終です。力及びませんで」

 いったいだれに向けて告げたのかわからなかったが、今一度、患者さんを見て、ボクは複雑な思いに駆られた。

 この人はいったいどんな人生を送ってきたのか。だれと、どこで、どんなふうにして、生きてきたのだろう。それが最後は生活保護になって、家族もおらず、たったひとりで、たまたま居合わせた新米の研修医に看取られた。あまりにも淋しい人生の終りではなかったか。

「あとはやっておきますから」

 ベテラン看護師にそう言われて、ボクは我に返り、当直室に引き揚げた。

 その後、外科医となり、後年は高齢者医療の現場に入って、多くの患者さんを看取った。顔を覚えている人はほとんどいない。しかし、最初に看取ったあの女性の顔だけは、今もありありと思い出せる。

[29]残酷な転院

 患者さんはたいてい自分の病気しか頭にないが、医シャはいろいろな病気を診るので、こう言うとひんしゅくを買うかもしれないが、自ずと病気に対する興味に軽重が生じる。特に外科医の場合は、いわゆる“大物”の手術に興味が集中する。

 消化器外科領域で“大物”と言えば、まずは食道がんである。

 食道は胸の奥、肺と心臓の後ろを通っているので、切除するためには胸の脇を大きく切らなければならない。さらには食道を取ったあと、食べ物の通り道を作るために、胃の小弯側しょうわんそくを切除して管状にしたもの(「胃管いかん」という)を横隔膜を越えて首の付け根まで持ち上げ、鎖骨の上を切開して、食道上部の断端とつながなければならない。従って、胸部、腹部、鎖骨上部と三カ所の皮膚切開が必要で、胃管を通すのも大変だし、断端の吻合も洩れやすいので、難度の高い手術とされていた。

 しかも、症例数は胃がんや大腸がんに比べると少ないので、食道がんの患者さんは、外科医からすれば興味津々の存在だった。

 ボクが受け持ちになったMさんは、60代後半で、ほっそりした慎ましやかそうな女性だった。入院の初日、ボクはMさんの病室に行き、自己紹介をしたあと、既往歴や現病歴を訊ねた。Mさんには食道がんであることは告げていなかったが、薄々感づいている気配があり、大学病院でなら最高の治療を受けられると思って入院してきたようだった。

 だから、ボクも及ばずながら期待に応えられるよう、「頑張りましょうね」と励ましの言葉をかけたりした。

 通常、大学病院に入院する患者さんは、手術前の検査をあらかた終らせてから入院するが、Mさんはなぜか腹部のCTスキャンの結果がまだ届いていなかった。入院の数日後に届いたが、見ると肝臓に転移があった。

 翌日、治療法を検討するカンファレンスがあったので、ボクは新入院のMさんの紹介をした。前述の通り食道がんは“大物”なので、指導医たちは身を乗り出すようにして、ボクの説明を聞いていた。

 ところが、腹部のCTスキャンのフィルムを出して、「肝臓に転移があります」と言ったとたん、その場にいた指導医たちが、えっというような顔になり、一気に潮が引くように患者さんに対する興味を失ってしまった。

「肝転移があるのか。なら、もういい」

 ボクはまだ説明の途中だったが、司会の指導医に「もういい」と言われ、席にもどらざるを得なかった。わけがわからないので、となりにいた指導医に「どういうことですか」と聞くと、「肝転移があったら、インオペ(inoperable=手術不能)やろ」と言われた。

「それなら、どうなるんですか」

「一般病院に転院や」

 えっと、今度はボクが声を出しそうになった。Mさんとは数日にすぎないが、すでに受け持ち医としていろいろやり取りもあって、すでに人間的な関係ができていた。それを手術もせず転院しろなどと、いったいどんな顔をして言えるのか。

 戸惑っていると、指導医が「俺が紹介状を書いて説明するから」と言い、そのままカンファレンスは終った。

 指導医の反応は素早く、Mさんはその日のうちにどこかの病院に移って行った。

 指導医はボクにこうも言った。

「大学病院というところは、治る見込みのある患者を受け入れるところなんや」

 がんが転移しているとか、再発した患者は診ないというわけだ。なんと冷たいと、当時のボクは憤りさえ感じた。

 しかし、後年、医シャとして経験を積むと、指導医の言い分が妥当なことに思い当たった。転移や再発のある患者さんの治療は、別に大学病院でなくても、一般病院で十分に対応できる。かたや助かる見込みのある患者さんの中には、大学病院でなければ救えない人もいる。助からない患者さんが長くベッドを占領していたら、入院待ちの間にがんが転移する危険性もある。

 もし、自分の大事な人ががんの診断を受けて、今なら助かるが、いつ転移するかわからないというとき、すでに助からないことが明らかな患者さんが、大学病院のベッドを占領していたら、どう思うだろう。一般病院でも十分な対応ができるのなら、早くそちらに移って、ベッドを空けてほしいと思わないか。

 医療にはこういう優先順位が厳然として存在する。それを上手に理解してもらわないと、「医シャに見捨てられた」とか「病院から追い出された」という誤解による批判を招いてしまう。

しかし、何より自分の命が大事な患者さんに、こういう現実を受け留めてもらうのは、至難の業にちがいない。