[34]乳がんの手術の意味

 第二外科では乳がんの患者さんも扱っていた。

 乳がんは、今は温存手術が主流だが、ボクが研修医だった40年ほど前は、ハルステッドの手術といって、乳房を全摘するだけでなく、その下の大胸筋や小胸筋まで切除するのが定型だった。

 その手術をすると、皮膚が肋骨に貼りついたようになり、むかしの絵にある鬼婆の胸のようになって、ふくよかな健側けんそくの胸に比べるとかなり悲惨なものがあった。わきの下のリンパ節も郭清かくせい(取り除くこと)するので、手術後に患側かんそくの腕がリンパ浮腫で腫れる人もいた。しかし、これも命を守るためだからと、患者さんに納得してもらっていた。

 ボクも何人かの乳がんの患者さんを受け持ったが、たいてい高齢だったので、表面上、乳房を失うことにさほどの抵抗を示さなかった。

 その中で、42歳で未婚のHさんだけは、入院したあとも手術を迷っていた。

「わたしはまだ若いし、これから結婚するかもしれないから」

「そうですね」と、相槌を打ったが、心の中では違和感ありありだった。

 今なら42歳で結婚を考えても、不自然ではないだろう。だが、40年ほど前は、まだ“結婚適齢期”という言葉が死語ではなかったし、当時、26歳ですでに既婚だったボクにすれば、今風に言えば「はぁっ!?」という感じだった。

 そもそも、手術をするのは、命を守るためではないのか。将来、結婚する可能性があるからといって、がんをそのままにする選択肢があり得るのか(まして、結婚の可能性がそれほど高いとはとても思えない状況で)。それがそのときの正直な気持ちだった。

 なんと冷たい……

 しかし、ならばどう言えばよかったのか。

 ──大丈夫ですよ。将来、きっと手術のことなんか気にしない男性が現れますよ。

 そんな無責任なことは、もちろん言えない。やはり、ただ「そうですね」としか言えないのではないか。相手の気持ちを思いやると言っても、現実には手術で乳房を切除する以外にないのだから。

 しかし、あるとき乳がんグループの指導医にこう言われた。

「女性が乳房を失うというのは、男が睾丸を取られるのと同じなんや」

 ショックだった。リアルに想像すると、自分がものすごく頼りなくなる気がした。それでボクはHさんだけでなく、これまで命を守るために乳がんの手術を受けた患者さんたちの悲しみが、少しわかったような気がした。

 そんなふうに、乳がんの手術は、女性にとってまさに命と引き替えの過酷な決断にほかならない。だから、今は乳房の温存手術が主流になって、患者さんの心理的苦痛もかなり軽減されたのではないだろうか。

 しかし、誤解のないように付け加えるなら、医療が進歩したおかげで、乳がんは温存手術でも治るようになったわけではない。ハルステッドの手術でも、温存手術でも、死亡率に差がないので、それなら温存にしようと決めたにすぎない。

 つまり、ハルステッドでも温存でも、乳がんは診断がついた段階で、転移の有無が決まっているということである(細胞レベルなので、見えないけれど)。

 さらに、イタリアで行われた臨床試験では、乳がんの手術後、定期的に検査を受けて再発をチェックしたグループAと、症状が出るまで検査をしなかったグループBを比べると、Aグループのほうが早く再発が見つかって、早期に抗がん剤の治療がはじまるが、死亡時期はAグループもBグループも有意差なしという結果が出ている。

 つまり、乳がんの場合は、手術のあと、定期的に検査を受ける意味はないということだ。いや、むしろ再発が早くにわかって、心配しながら副作用のある治療を受ける期間が長くなるだけ、QOL(生活の質)は低下することになる。

 だから、乳がんの手術を受けたあとは、病院になど行かずに、症状が出るまで放っておけばいいということだが、日本ではまずそんなことにはならないだろう。いくら信頼できるエビデンスがあっても、心理的な不安が人々を突き動かす力のほうが、はるかに強いのだから。

(ただし、このイタリアでの検証は少々古いので、新しい抗がん剤が開発された現代では、同じ結果になるかどうかはわからない。もう一点、現在、温存手術が普及したのは、ハルステッドの手術と温存手術を無作為に比較して、有意差なしの結果が得られたからこそである。日本でこの比較試験は可能だろうか。がんはできるだけ広く切除したほうが安心だと思い込まされていたとき、温存手術のグループに志願する患者さんがいるとは思えない。そう考えると、欧米人の合理主義には敬意を払わずにはいられない。)

[33]糞まみれの危険

 外科医の仕事は3Kで、“キケン”は手術や針刺し事故によるウイルスの感染、“キツイ”は手術後の重症管理で病院に泊まり込んだり呼び出されたりすることで、“キタナイ”は糞まみれ・・・・になることだろう。特に消化器外科医、なかでも大腸疾患グループの医シャは、日々、糞に直面しなければならない。

 大腸がんの検査で行う大腸カメラは、今はモニターを見ながら手元で操作するが、ボクが外科医だったころは、手元のレンズをのぞきながらやっていた。カメラの先端が奥に進むにつれ、手元のレンズは患者さんの肛門に近づく。必然、レンズをのぞく医シャの顔も近づく。検査は大腸内に空気を送り込んで膨らませて行うので、ときに放屁が起こる。ただのガスならまだいいが、往々にして屁しぶきとなる。あっと思った瞬間、薄黄色いスプレーを浴びせられる。そういうときには、〽ワタシャなんでこのような、つらい務めをせにゃならぬと、胸中で呻いたものである。

 研修医のときに糞を浴びる危険性が高いのは、人工肛門の処置だった。

 人工肛門というと、器械か器具をお尻に装着するようなイメージがあるかもしれないが、そうではなくて、大腸の切り口を腹部の穴から体外に縫いつけたものである。

 なぜそんなことをするかというと、直腸がんではがんを含む直腸を切除して、残った上下を縫い合わすとき、がんが肛門に近いと縫い代が取れず、場合によっては肛門ごと切除することもあるからだ。そんなとき、便の出口を作る必要があるので、大腸の断端をヘソの左側に開けた穴から体外に引っ張り出して、内腔を露出する形で皮膚に縫いつける。これが人工肛門で、見た目はヘソの横に穴の開いたウメボシをくっつけたようになる。

 ふつうの肛門の場合、便がもれないのは“肛門括約筋”という筋肉が出口を閉めているからで、人工肛門の場合はそれがないから、常に便がもれ出る状態となる。それでは困るので、パウチという粘着板付きのプラスチックバッグを貼り付けて、便を溜めることになる。このパウチの交換のときに、油断すると大腸の蠕動により便汁が噴出するのである。

 腸の動きは不随意だから、患者さんに責任はないが、間が悪いと悲惨なことになる。だから、できるだけ速やかに交換するのだが、周囲の皮膚がただれていたり、消毒に手間取ったりすると、危うい時間が続くことになる。

 特に、手術後1週間めに、人工肛門を縫いつけた周囲の抜糸をするときは時間がかかり、粘膜の奥に隠れた糸をさがしたり、ピンセットでうまくつかめなかったりすると、あたかも時限爆弾の処理班のような緊張があたりを支配する。患者さんも息をひそめているが、グルグルと腸雑音が聞こえたりすると、横にいる看護師が無言のアラームを発し、不慣れな研修医は、それこそ導火線に火の着いた爆弾を抱えたように気分になる。

 そんな処置が必要な人工肛門を忌避する人も多いが、今はパウチも改善され、便がもれたり、皮膚がただれたりすることもずいぶん減った(逆に言うと、以前はそういうトラブルが少なくなかった)。ヘソの横に自分の大腸の切り口が露出しているなんて、想像の域を超えていると感じる人もいるかもしれないが、服を着れば外からはわからないし、においがもれることもない。入浴も可能だし、うまく管理すれば、パウチをはずしてガーゼを当てるだけで長時間すごせるようにもなる。

 少し考えればわかるが、大腸は1本の長い管で、当然ながら便は出口に近づかなければ外へは出ない。であれば、出口から奥までを空っぽにしておけば、次の便が出口に到達するまでは、何も出ないことになる(大腸は消化液などを分泌しないので)。それが“洗腸”という管理法で、大腸全体の浣腸のようなものである。

 具体的には、1000から1500mlの微温湯を、点滴の要領で10分程度かけて人工肛門から大腸に注入し、数分待ってから注入具を抜くと、断続的に大腸内の便がほとんどすべて排泄される。処置にかかる時間は約1時間。慣れればこれで丸1日、人工肛門から便が出ることはなくなる。

 それでもやっぱり人工肛門は受け入れられないと思う人も多いだろうが、何事にもいい面と悪い面があるように、人工肛門にもいい面はたくさんある。

 まず、痔になる心配がない。さらには便秘に悩むこともない。排便時にきばりすぎて、脳出血を起こす危険性もない。

 さらに高齢になって介護を受けるようになったら、人工肛門はふつうの肛門よりはるかに優れている。自然肛門の場合は、股関節が拘縮していたりすると、オムツの交換のたびに、痛い思いをして股を開かされ、介護者はバネのように閉じようとする脚を押さえながら、股ぐらに手や顔を突っ込まなければならなくなる。当然、悪臭が広がることも防げない。

 陰部洗浄も自然肛門の場合は厄介で、介護者もたいへんだが、当人も恥ずかしい思いに耐えなければならない。人工肛門であれば、そんな苦痛や不便はいっさいなく、ベッドに寝たまま簡単にすませられる。

 高齢者医療の現場に長くいた経験からすれば、寝たきりになった人は、直腸がんでなくても人工肛門にしたほうが、当人にも介護者にも、メリットは多いと感じる。ボクが寝たきりになったときには、もし人工肛門にしてもらえるなら、自費でも迷わずお願いするだろう(ただし、認知症になった場合はこのかぎりにあらず。ご想像の通り、認知症になるとパウチが理解できず、無闇に剥がして・・・となる危険性が高いので)。

[32]患者さんの依怙贔屓

 医シャも人間なので、人の好き嫌いはある。しかし、こと患者さんに関しては、好き嫌いなど持ち出してはいけないし、またそんなことをする余地もない。医シャは病気を治すことに全神経を集中しているので、患者さんに対する好き嫌いなど感じているヒマはないからだ。

 というのは建前で、医シャも経験を積むに従って気持ちに余裕ができ、よけいなこと、すなわち患者さんに対する好き嫌いを感じるのは致し方のないことである(容認しているわけではありません)。

 しかし、研修医にかぎって言えば、それこそ受け持ち医としての役割を果たすことに必死で、患者さんに対する好き嫌いなど感じる余裕はまったくない。ボクも自分の受け持ち患者さんに、好悪の情を抱いたことはなかったと断言できる。

 だが、患者さんのほうはそうでもなかったようだ。

 Oさんという食道静脈瘤の患者さんは、60代のはじめで身よりがなく、医療保険は生活保護だった。食道静脈瘤を引き起こした原因は肝硬変で、それは長年の大量飲酒によるものだった。肝硬変特有の赤ら顔で、年齢以上にやつれて見え、頭は白髪の短髪、小さな目には常に緊張と苛立ちが浮かんでいるという風貌だった。

 ボクはいつもの通り、現病歴や既往歴を聞き、診察をして、検査や手術の準備を進めた。はじめのうちは特段、Oさんとの関係も悪くはなかった。

 その少しあとに、Sさんという50代の胆石の患者さんが入院してきて、ボクが受け持ち医になった。SさんはたまたまOさんと同じ部屋になり、1つの部屋に自分の受け持ち患者さんが、2人並ぶことになった。

 Sさんは銀行の重役で、見るからに優秀そうで、ずっと陽の当たる道を歩いてきたという感じの人だった。入院の日、部屋に行くと、裕福そうな美人のお奥さんが付き添っていて、ていねいに挨拶をしてくれた。夕方には息子さんと娘さんも見舞いに来て、仲のいい家族であることがうかがえた。

 翌日も、Sさんには家族全員の見舞いがあり、奥さんは豪華な花束を買ってきて、ベッドサイドに飾ったりした。Oさんを含む同室の患者さんにも愛想よく振る舞い、部屋の雰囲気を明るくしていた。

 ところが、その翌日、夕方に部屋に行くと、Oさんがベッドの周囲にカーテンを張り巡らし、完全に周囲をシャットアウトしていた。ボクがカーテンの隙間から入って、「どうかしましたか」と聞いても、「別に」と不機嫌そうに答えるばかりで、視線を合わせようともしない。

 続いて、となりのSさんを診に行くと、こちらも妙な雰囲気だった。見舞いに来ていた奥さんが、Oさんのベッドから離れた側の丸椅子に座り、顔をしかめてボクに耳打ちした。

「そちらの患者さんに、うるさいと言われましてね」

 Sさんが眉間に皺を寄せて言い足した。

「別に騒いだわけじゃないですよ。ふつうに話していただけなんですがね」

 となりのベッドからカーテン越しに、聞こえよがしの荒っぽいため息が洩れた。

 困ったなと思ったが、妙案も浮かばなかったので、ボクは「そうですか」とだけ言って部屋をあとにした。

 翌日、指導医のM先生に呼ばれて、「Oさんが、君が患者を依怙贔屓すると、婦長に苦情を言うたそうやで」と言われた。ボクは頭に血が上り、「そんなことはぜったいありません」と反論した。実際、依怙贔屓などした覚えはなかったし、OさんにもSさんにも同じように接し、診察も説明も分け隔てなくしたつもりだった。Oさんには見舞客が1人もなく、Sさんの家族が毎日見舞いに来て、明るく話すのが不愉快だったのはわかる。だが、それでボクが依怙贔屓をしたというのは、明らかにひがみによる誤解だ。

 そう弁解すると、M先生は「ちょっと話を聞いてくる」と言って、Oさんの部屋に行った。M先生は和歌山医大を出て、阪大の第二外科に入局した人で、外様のため医局内では地位が低かった。手術の腕もさほどではなく、なんとなく存在感の薄い指導医だった。その代わり素朴で明るく、いかにも庶民派という感じだった。

 それが幸いしたのか、たまたまSさんが部屋にいなかったこともあってか、OさんはM先生に思いのたけをぶつけたようだった。

 病室からもどってきて、M先生がボクに言った。

「君の言う通り、Oさんのひがみのようやな。話を聞いて、『淋しかったんやなぁ』と慰めたら、ポロポロと涙をこぼしてた。感情の行きちがいがあったら、あとがやりにくいやろうから、受け持ちを替わるか」

 そう聞かれたが、ボクは交替を拒否した。誤解で受け持ちを替わるのは不本意だったからだ。

 そのまま手術を終え、退院するまでOさんの担当を続けたが、最後までボクは心を開くことはできなかった。もちろん、Oさんも同様だ。

 退院したあと、Oさんが外来診察を受けに来て、M先生に挨拶をしているところを偶然見かけた。ボクには見せたことのない人なつこい笑顔で、お辞儀をしていた。

 患者さんの心をつかむというのはこういうことか。そう思いつつも、ボクには遠い道程のように感じざるを得なかった。