[22]残酷な説明1

 9月に入ると、また新しい患者さんが入院してきた。

 横行結腸がんのM氏は50代の後半で、以前にも大腸がんを患い、すでに人工肛門をつけている人だった。つまり、2度目の大腸がんということだ。

 個人で事務所を開いているデザイナーで、綿密な仕事をするせいか、かなり神経質そうだった。本人にはがんであることを告げていなかったが、薄々感づいているようで、病気や手術に対する不安が大きかった。

 指導医は大腸疾患グループのO先生で、手術の説明は、よく言えば冷静沈着、悪く言えば淡々としすぎて、M氏を安心させようとか、不安を取り除こうとかいう雰囲気はゼロだった。M氏は懸命に耳を傾け、せっかちに相づちを打ち、素人の患者さんには理解しにくいと思われるようなことにも、「はい、はい」と、わかったような返事を繰り返した。

 当時は患者さんにがんの告知はしないことになっていたので、O先生の説明も勢い、曖昧なものになる。Mさんは自分ががんかもしれないという不安と、そうではないという希望の狭間で揺れ、なおかつ、はっきり聞きたい気持ちと、聞くのが怖いという恐れの間でも身悶えしていた。今回の手術でも人工肛門は避けられないと言われ、やはりがんなのかと覚悟を決めかけて、「悪い病気ですか」と聞くと、「いや、そうとは言い切れない」というようなあやふやな答えを返される。まるで蛇の生殺しだなとボクは思った。

 がんの告知をしなかったのは、もちろん患者さんのことを思ってのことだ。当時は、がんイコール死というイメージが強かったので、相手を絶望させないように隠していた。しかし、こういう目先の親切は、裏目に出ることが多い。なぜなら、患者さんが疑心暗鬼に陥るからだ。がんではないと聞いて安心するものの、病気は一向に治らず、やはりがんなのかと絶望しかけては、ちがうと言われ、それならと希望を持つが、症状は徐々に悪化して、いよいよ最期が近づいて来たとき、がんであることを認めざるを得なくなる。

 すなわち、周囲の助けがもっとも必要なときに、周囲が信じられなくなるのだ。医シャが嘘をついていたことを知り、家族も自分をだましていたという事実に向き合わねばならないのだから。

 あとのケンカは先にという言葉があるが、日本人のメンタリティは、どちらかと言えば、臭いものにはフタ、見て見ぬふり、闇から闇へに傾いているのではないか。がんの告知をしなかったのは、周囲の優しさでもあるが、絶望する相手を見たくないという無意識の自己保身もあったような気がする。

 がんの告知は、日本では90年代から行われるようになったが、それは患者さんの知る権利が広まったことに加え、渡哲也氏(大腸がん)や杉原輝雄プロ(前立腺がん)、立川談志師匠や赤塚不二夫氏(ともに食道がん)が、がんであることを公表し、なおかつそれで死なないことが世間に知れ渡ったのが大きかっただろう。

 ボクはそのころ、オーストリアの日本大使館で医務官として勤務していたが、ウィーンの医師に、「日本ではがんの告知はしない」と話すと、信じられないというような顔をされた。患者さんが検査を受けるのは、がんかどうかを知るためなのに、がんの場合に告げないのでは、検査をする意味がないというのだ。

「でも、がんだと告げると、患者さんがショックを受けるでしょう」と言うと、「それは仕方がない」「ショックを受けたくないのなら、検査を受けなければいい」などの答えが返ってきた。誠に合理的で、日本人のセンチメンタリズムとのちがいを痛感させられた。

 M氏への説明に話をもどせば、本人にはがんとは言わないが、当然、家族にはほんとうの病名を告げる。M氏には子どもがなく、家族は奥さんだけだった。

 O先生は奥さんだけを別室に呼び、改めて病気と手術の説明をした。その内容は実に悲観的で、ほぼ奥さんに夫の死を覚悟させるものだった。いくら2度目のがんだからと言って、どうしてそんな残酷な説明をするのか。もう少し、希望を持たせるようには言えないのかと、ボクは横で聞きながら、もどかしい気持ちになった。O先生はふだん温厚で、研修医にも優しく、意地の悪いところや冷酷な雰囲気のまったくない先生だったので、よけい不思議だった。

 M氏の奥さんはその説明を気丈に受け止め、「夫は心配性で怖がりなので、できるだけがんであることはわからないようにしてください」と言った。

 そして、手術の当日、腹部を切開すると、横行結腸だけでなく、直腸にもがんができていた。3つめのがんで、今ほど化学療法が進んでいなかった当時では、余命がわずかであるのは明らかだった。

 O先生にはこの状況があらかじめわかっていたのだろう。だから、悲観的な説明で、奥さんの心の準備を促したのだった。それは先のことを考えた親切だったにちがいない。

[21]甲子園球場のバイト

 8月、高校野球がはじまると、思いがけないアルバイトの話が舞い込んだ。甲子園球場の医務室で、怪我人や急病人に備えて待機する仕事である。待機と言っても、ずっと医務室にいる必要はなく、出番がないときは、ネット裏の報道関係者がいるような席で試合を観戦できるという。

 こんなオイシイ話に手を挙げないわけにはいかない。首尾よくバイト要員に選ばれると、当日、ボクは妻といっしょに甲子園球場に向かった。許可を取ったわけではないが、1人分くらい席に余裕はあるだろうと踏んで連れて行ったのだ。

 車で球場に着くと、あらかじめもらっていた駐車許可証を示して、球場敷地内に入れてもらった。ここからすでに気分がいい。事務室のようなところに行き、特別の通用口から医務室に入った。当然、はじめは怪我人などいないから、すぐネット裏の席に移動する。妻を同伴していることにとやかく言う人はいなかった。

 しばらくすると、出場する選手に注射をしてほしいという依頼が来て、医務室に行くと、丸刈りでウォーミグアップをすませたらしい選手が待っていた。右手の親指の付け根を捻挫して、痛いので局所麻酔薬を注射してくれと言う。湿布や鎮痛剤ならまだしも、捻挫に局所麻酔薬など注射してもいいのだろうか。痛みは抑えられるだろうが、それで野球などしたら、捻挫が悪化するのではないか。

 そう思ったが、前の試合のときにも注射してもらったと言うので、同じように注射をした。

 それからしばらく、のんきな観戦が続いた。席はホームベースにもほど近く、ダッグアウトのように地面より少し低くなっていたので、目線の位置が低くて迫力があった。こんな特等席で、妻サービスもでき、しかもバイト料までもらえるなんて、恵まれすぎと浮かれていたら、思いがけない出番が来た。

 名古屋電気高校の投手が、香川県立志度商業高校の選手にデッドボールを与えたのだ。当たった場所は頭部に近く、選手は倒れたまま動かない。あーあ、大丈夫かと思っていたら、「ドクター、来てください」と言われ、はっと我に返った。

 球場関係者に誘導されてバッターボックスに行くと、倒れた選手の耳が少し裂けて出血していた。しかし、意識はあり、対光反射なども正常だったので、選手を医務室で手当することにして、試合は続行された。傷の手当ても当直のバイトで慣れていたので、簡単に終えることができた。

 医務室から出てくると、新聞記者に取り囲まれた。デッドボールを与えた投手が工藤公康選手(ご存じ、後のソフトバンクの監督)で、大会前から注目を集めていたからだろう。けがの説明を求められて、「耳の裂傷と耳介軟骨の骨折」と説明した。所属と名前を聞かれたので、「大阪大学第二外科のクゲと言います」と答えたあと、「漢字はどんな字」と聞かれ、「久しい家と書きます」と伝えた。

 席にもどると、妻が「大丈夫? 大変だったね」とねぎらってくれたが、ボクは存外、いいところを見せられたのではないかと、内心、得意だった。

 試合が終わったあと、妻は車で帰宅し、ボクは大学病院にもどって、残っている仕事にかかった。

 すると、研修医ルームのテレビに、おまえが映ってるぞと、同僚が報せてきた。急いで見に行くと、ニュース番組にデッドボールで倒れた選手の横にかがみ込むボクの姿が映し出されていた。周囲の審判や関係者は、みな心配そうにボクの診断を待っている。選手が立ち上がり、医務室に消えたあと、アナウンサーが解説した。

「大阪大学第三外科のヒサイエ先生の診断によりますと、耳の骨折とのことで……

 研修医ルームでテレビを見ていた同僚たちが爆笑した。

「おまえ、第三外科の医者なんか」

「名前はヒサイエ先生か」

「それで耳の骨折って、おまえの耳には骨があるんか」

 某スポーツ新聞の夕刊にも「第三外科」「耳の骨折」と出ていた。さすがに「久家」に「ヒサイエ」のルビまではなかったけれど。

 メディアにとって、デッドボールの怪我を診察した医シャなどどうでもいいのかもしれないが、せめて怪我の状態だけでも正確に伝えてほしかった。

[20]M先生のこと

 研修医生活からははずれるが、ダメ研修医に温情をかけてくれたM先生のことを少し書いておこう。

 第二外科の研修を終えたあと、ボクは麻酔科の研修医になり、その後、入局しないまま大阪府立成人病センター(現・大阪国際がんセンター)の麻酔科に2年間、勤務した。

 麻酔科のほうが小説を書く時間が取れるだろうと思ったからだが、やっぱり外科医にもどりたくて、第二外科に改めて入局をお願いした。当時、教授は神前五郎先生から森武貞先生に代わっていて、面接に行くと、「入局してもいいが、医局の方針には従わないといかんぞ」と釘を刺された。よほど勝手なことをしそうなヤツと見られたのだろう。

 医局からの派遣で、神戸掖済会えきさいかい病院の外科に勤務することになったが、3年後、自分で勝手に外務省に入ることを決め、医局には事後報告で海外勤務に出た。森教授のヨミが当たったわけだが、クビを宣告されることはなかった。

ボクは医務官という仕事で、サウジアラビア、オーストリア、パプアニューギニアの日本大使館に約9年間勤務したが、40代になってそろそろ日本に帰ろうとしたとき、勤務先がなかなか見つからなかった。

 それでダメ元で、第二外科の医局に紹介してもらうことを考えた。長い間、勝手なことをしたので、断られるかもしれないと思ったが、とりあえずパプアニューギニアから連絡すると、当時、教授になっていたM先生は、外来の診察中にもかかわらず電話に出てくれ、「とにかく一度顔を出せ」と言った。

 外務省をやめて、9年ぶりに大学の医局を訪ねるとき、ボクはそれまでとはちがう緊張感を抱えていた。海外勤務の間も小説を書くことはやめず、文芸雑誌の新人賞に応募して、最終候補には何度かなったが、受賞には至らず、年齢も42歳になっていたので、作家になれるかどうかの瀬戸際に追い詰められていた。ここでもし医局から勤務先を紹介してもらえても、多忙な病院勤務だと、執筆の時間が取れなくなる。それでは困るので、M教授に面会するとき、ボクは本音で勝負することにした。

 すなわち、こう言ったのだ。

「長年、不義理をして申し訳ありませんでした。就職先の斡旋をお願いしながら、こんなことを言うと怒られるかもしれませんが、ボクは小説家になりたいので、勤務があまり忙しくないところをお願いします。できれば週の半分くらいの勤務で」

 馬鹿野郎、ふざけるな! と罵倒されるのを覚悟して頭を下げた。当然だろう。ほかの医局員たちは、それこそ私生活を犠牲にする忙しさで、日夜、大学病院や関連病院で激務に勤しんでいるのだ。M教授自身も、診療、研究、教育の重責を担い、医局運営で連日多忙をきわめている。ボクひとりが小説家になりたいなどと、寝ぼけたようなことをほざいて、受け入れられるわけがない。

 いつ雷が落ちるかと緊張しながら低頭していると、M教授はしばし困惑の沈黙のあと、こうつぶやいた。

「おまえは自由でええな」

 意外な言葉に、思わず返事ができなかった。顔を上げると、教授室の雑多な書類や雑誌などが改めて目に入った。時代が変わり、かつて権力と名誉と富を一身に集めていた教授の地位が、社会の批判にさらされ、責任と役割ばかりの職になっていたのだ。厳しい競争を勝ち抜き、自ら望んで就いた教授職ながら、M教授はその多忙さ、窮屈さ、煩雑さに、おそらく疲れていたのだろう。そこに40歳をすぎて夢見るようなことをボクが臆面もなく口にしたので、先の一言が洩れたのではないか。

「で、どんなところに就職したいんや」

 そう聞かれて、とっさに「拘置所なんかであれば」と答えた。第二外科が持っているポストに、大阪拘置所の医務部があり、医局員を派遣していた。拘置所の医者ならふつうの病院より時間はあるだろうし、収容されている人たちにも興味津々だ。

「わかった。あとは医局長と相談しろ」

 それで面談は終わり、後日、医局長と相談することになった。ボクには奇跡のような展開だった。

 しかし、医局長は教授ほど甘くはなく、むしろかなり不快そうな応対で、拘置所の話はNGとなり、ヒマがいいなら高齢者医療のクリニックに行けと、デイサービスのクリニックを紹介された。拘置所に行けなくなってがっかりしたが、人間万事塞翁が馬、6年後、そのクリニックをモデルにして、『廃用身』という小説でデビューできたのだから、人生はわからないものである。