[49]全身麻酔のあれこれ・1 麻酔の開始

 今は麻酔法も進歩して、ボクがやっていたころとは隔世の感があると思うが、40年前はほぼこんな感じだった。

 朝の検討会が終わると、医局から手術室に移動し、麻酔器の横にあるワゴンに必要な薬剤や気管チューブなどを用意する。そのあと、天井から垂れ下がった酸素と笑気の配管を麻酔器につなぐ。逆につなぐと患者さんが死ぬので、それぞれ色とアダプターが異なっていて、まちがいようがないようになっている。

 使う薬は、挿管のときに一時的に患者さんを眠らせる静脈麻酔薬、筋弛緩剤、筋弛緩剤の拮抗薬(筋力をもどすときに使う)などである。GOFやGOEのときは、麻酔器にセットされた気化器の残量を確かめ、NLAのときは使用する麻薬を用意する。

 準備万端調えて待っていると、病棟から患者さんがストレッチャーで運ばれてくる。全員同じ患者着で、毛布をかけられ、頭には紙製のシャワーキャップのようなものをかぶせられている。前麻酔(気持ちを鎮めるために病棟で投与される鎮静剤)のため、意識がもうろうとしている人も多いので、名前を確認しても曖昧な返事しかないこともある。以前、横浜の病院で、患者さんの取りちがえ事件(心臓病の患者さんと、肺がんの患者さんを取りちがえ、逆の手術をした)が起きたのは、こういう状況が原因だったのだろう。

 全身麻酔では人工呼吸を行うが、その理由は、筋弛緩剤で筋肉を緩めると、呼吸筋も動かなくなって、呼吸が止まるからだ。なぜ筋弛緩剤を使うかと言うと、麻酔で痛みを抑えても、メスで切ると筋肉が収縮して、手術がやりにくいからである。

 挿管するときは、当然、意識があるとできないので、静脈麻酔で一時的に眠らせる。さらに、嘔吐反射を防ぐため、短時間作用の筋弛緩剤で、反射が起こらないようにする。

 このときに使う薬(サクシン)は、脱分極性の筋弛緩剤で、効きはじめに頭から足に向かって、ブルブルと一過性のけいれん(Fasciculation=線維束性筋収縮)が起こる。それが全身の筋肉が弛緩したという合図で、それが終わらなければ挿管はできない。

 その状態(意識もなく、呼吸も止まっている)で、患者さんの口を開き、喉頭鏡を入れて、声門を確認しながら気管チューブを挿入する。

 一時的に眠らせたり、短時間作用の筋弛緩剤を使うのは、めったにないけれど、挿管不能のときに、自分で呼吸するようにもどってもらわなければならないからだ。

 逆に言うと、挿管にはタイムリミットがあるということで、Fasciculationが終わると、挿管の秒読みがはじまる。不慣れな研修医は、ただでさえ緊張しているのに、意地悪な指導医から、「早よせな患者が目を覚ますぞ」などとプレッシャーをかけられて、ますます焦る。

 それで声門がしっかりと見えていないのに、エイヤッと気管チューブを押し込むと、たいてい食道挿管(チューブが食道に入ってしまう)となり、アンビューバッグ(麻酔器についている黒いゴムの送気用バッグ)で空気を送ると、胸は動かず、腹が膨れて、やりなおし(指導医と選手交替)となる。

 無事に気管チューブが声門を通過すると、喉頭鏡を抜き、手元の注射器でチューブの先端についているウィンナーソーセージほどのバルーンを膨らませる。送った空気がもれないようにするためである。

 チューブの位置が浅すぎて、バルーンが声門に当たっていると、あとで患者さんの声が出なくなったりするので、しっかり通過させなければいけない。しかし、奥まで入れすぎると、チューブの先端が気管の分岐部を超えて、片肺挿管になってしまう。だから、挿管後は、アンビューバッグで空気を送って胸が上下しても、必ず聴診器で両方の肺に空気が入っていることを確かめなければならない。

 挿管が無事に終わると、静脈麻酔薬とサクシンの効果が切れる前に、本格的な全身麻酔に移行する。すなわち、酸素と笑気を送り、吸入麻酔薬や麻薬をスタートして、長時間作用の筋弛緩剤(ミオブロック)を投与するのである。

 通常は、ここで気管チューブを人工呼吸器につなぐが、研修のはじめの3カ月は、修練のために、アンビューバッグを手で押し続けるよう指導された。肺に空気が出入りする感触や、気道内圧の感覚を習得するという名目だったが、これはかなり面倒臭かった。

 呼吸は吸気・・呼気・・が同じ長さではなく、1分間に15回の呼吸として、吸気(バッグを押す時間)は1.5秒、呼気(バッグを放す時間)は2.5秒にしろと言われた。これを4時間の手術なら、156043,600回、バッグを押し続けなければならない。血圧や脈拍、尿量などを測り、記録用紙に書き込みながらで、単調かつ多忙な作業だった。

 午前と午後にまたがる手術のときは、昼食を摂る間、指導医が麻酔を交替してくれる。研修医がアンビューバッグを押していても、たいていの指導医は、交替の間、人工呼吸器につないでしまう。ベテランの指導医が手押しなどできるかいというわけだ。

 ところが、Y教授が昼食の交替に来てくれたとき、もどってみると、アンビューバッグを押していた。雲の上の存在である教授が、研修医と同じく面倒なバッグの手押しをしている。ボクはその姿に感動した。率先垂範。さすがは自他ともに厳しい人だった。

[48]2年目は麻酔科で研修

 2年目の研修は、麻酔科で受けることになり、71日から大学病院の4階、中央手術部にある麻酔科医局に出勤した。

 手術開始が午前8時なので、麻酔の準備はその前にしなければならず、さらにその前に当日の麻酔の検討会があるので、出勤時刻は午前7時だった。家を出るのは午前6時すぎで、いつも早朝に目が開く今なら何ともないが、当時は眠くてつらかった。

 麻酔科は小さな所帯で、Y教授とT助教授以下、指導医は56人しかおらず、中には大酒のみだったのが、キリスト教に目覚めて禁酒した先生や、北新地での飲み会では、カウンターの向こう側に入って酒を作るような変わり者の先生もいた。

 教授のY先生は、第一外科から麻酔科に移った人で、当時、年齢は40代前半。医学部の教授の中ではダントツに若かった。それでも、第二外科のときのイメージがあるので、教授は雲の上の存在で、近寄りがたいものを感じていた。黒髪に太い眉、濃い目で、白皙の秀才教授という印象で、研修の挨拶に行ったときも、しかつめらしい顔で「うむ」とうなずくだけで、笑顔のえの字もなかった。

 ところが、研修がはじまって間もなく、うっかり医局に眼鏡を忘れて手術室から取りにもどると、Y教授がボクの黒縁の大ぶりな眼鏡をかけて、「どうや。似合うか」とおどけて見せたので唖然とした。ほかの教授ではあり得ないお茶目ぶりだった。

 しかし、検討会のときは当然ながら教授としての威厳を保ち、指導も厳しかった。

 検討会では、その日のライター(麻酔責任者)に、担当する患者の病名、年齢、検査データなどを報告し、どの麻酔法を選ぶかを決める。病歴や検査データは、前日に術前回診と称して病棟に行き、カルテから引き写し、そのあと病室で患者さんに麻酔の担当医であることを告げた上で、簡単な診察と麻酔についての説明を行う。

 患者さんへの説明で、欠かせないのが、挿管のときに前歯が折れる可能性があるということだった。

 挿管とは、手術中に人工呼吸をするため、口から気管に小指ほどの太さのプラスチックチューブを差し入れることで、口を開けただけでは気管の入り口(声門)が見えないので、喉頭鏡という湾曲した鉤状の器具を使う。手術台の上で静脈麻酔薬で眠らせた患者さんの頭側に立ち、右手の親指と人差し指で口を開いて、鉤の部分を口に突っ込む。まず鉤の側面で舌を横にどけ、さらに鉤を進めると、声門を塞ぐように親指くらいの軟骨のフタが見えてくる。それが喉頭蓋こうとうがいで、ものを飲み込むときに気管に入らず食道に進むのは、このフタが声門を塞ぐからである(ゴックンのときにのど仏が上下するのがその動き)。

 喉頭蓋を確認すると、鉤の先端をその付け根に当てて、ぐいと持ち上げ、気管の入口が見えるようにする。このとき、喉頭鏡の根本が前歯に当たり、梃子の支点のようになって、前歯が折れることがあるのだった。もちろん、できるだけ前歯に当てないようにするが、顎の形によっては、当てなければ鉤の先端が喉頭蓋に届かない場合もある(顎の小さい人や、顎と首の境目がわかりにくい人などが要注意)。その場合は、極力、前歯に力をかけないようにするが、高齢者で歯がぐらついている人などは、ほんのわずか当たっただけで、メギッといやな感触になることが多い。高齢者で歯が1本もない人(入れ歯は手術前にはずしてもらう)は、歯茎に喉頭鏡が当たるとすぐに出血して、血みどろの挿管になったりする。

 検討会では、その日に使う麻酔法を決めるが、選択肢はたったの3つ。フローセンという吸入麻酔薬を使うGOF(Gは笑気ガス、Oは酸素、Fはフローセンの略)、エトレンという吸入麻酔薬を使うGOE(Eはエトレンの略)、そして麻薬を使うNLAの3種である。どれを選ぶかは研修医に任されていた。

 フローセンには肝障害の副作用があるので、肝機能の悪い患者さんには使えないが、それ以外は何を使おうと自由だった。つまり、毎回、GOEかNLAにしても問題ないのだが、それでは芸がないので、適宜、目先を変えるというのが実態だった。だから、肝機能の悪い患者さんにGOFを選ばないかぎり、ライターに麻酔法の変更を求められることはなかった。

 当時はまだ麻酔科の歴史が浅く、使える麻酔薬も種類が少なくて、麻酔法のバリエーションも限られていた。その分、研究の余地が多くあって、指導医たちは麻酔薬の副作用や覚醒遅延(麻酔がなかなか覚めないこと)、あるいは麻酔中の事故や突発事、筋弛緩剤の用法など、それぞれのテーマで研究を進めていた。

 一方で研修医には学ぶこともさほど多くはなく、担当する手術が終れば業務から解放されるので、相変わらず小説に気持ちが向いていたボクには、実に好都合だった。

[47]外科研修最後の大失態

 ヨーロッパ旅行に出かける前夜、翌朝の早い出発に備えて、午後10時すぎに就寝すると、廊下で電話のベルがけたたましく鳴った。

 今ごろだれかと受話器を取ると、前に麻酔科を「外科医の奴隷」と言った指導医のK先生の声が飛び出した。

「おまえのヘパトーマ(肝臓がん)のKさん、39度近い熱を出してるぞ。今すぐ診に来いとは言わんが、明日、朝いちばんで病院に来い」

 えーっと思ったが、どうしようもない。とにかく、ありのままを口にした。

「すみません。ボク、明日からヨーロッパ旅行に行く予定なんです」

 アホか、キャンセルしろと言われたら、従わなければならない。神仏に祈る気持ちで返答を待つと、K先生はしばらく呻吟したあと、舌打ちとともにこう言った。

「ほんならしゃあないな」

 あとで聞くと、K先生は自分も沖縄旅行に行く予定があったらしく、自分だけ休暇を取るのはまずいと思ったようだ。

 いずれにせよ、その一言で許可をもらったつもりになり、翌朝、ボクは妻とともにヨーロッパ旅行に出発した。今回はツアーに入らず、現地でホテルや切符を自分で手配するオリジナルの旅行だ。

 南回りだったので、まずタイのバンコックで、トランジットの間に空港近くの寺院を訪ね、翌朝、早くに最初の目的地、デンマークのコペンハーゲンに着いた。レンタル自転車に乗り、人魚姫の像や市庁舎、ローゼンボー城などを見て、感じのよい安ホテルに泊まり、2日目はアマリエンボー宮殿で黒い毛皮の帽子をかぶった衛兵の交代式を見たあと、チボリ公園に行って閉園ギリギリまで遊び、夜はそのまま夜行列車に乗って、次の目的地であるノルウェーのオスロに向かった。

 オスロではムンク美術館、フログネル公園、ヴィーゲラン博物館などを見て、いつまでたっても日の暮れない公園を散歩し、ほぼ白夜に近い夜を楽しんだ。

 翌朝は、早朝の飛行機でオランダのアムステルダムに飛び、妻が楽しみにしていたフロリアーデの会場に行った。フロリアーデは10年に1度催されるオランダの花博で、チューリップはもちろん、世界中から珍しい花、豪華な花が集められ、会場には人工池が作られ、大温室もあり、図鑑でも見たことのないような花が満ちあふれていた。芝生の広場もあって、そこに寝転ぶと、午後8時をすぎても昼間のような明るさで、まるで天国に来て時間が止まっているかのような気分になった。

 夜遅くにアムステルダムの運河を船で巡るナイトツアーに参加し、翌日も午前中にフロリアーデに行ったあと、午後からはゴッホ美術館とアンネ・フランク記念館(実際の隠れ家)を訪ねて、夜行列車でふたたびコペンハーゲンにもどった。

 コペンハーゲンでは、ストロイエ(歩行者天国の商店通り)で買い物をしたあと、国立美術館でレンブラントやマチス、モジリアニなどを観て、夕方からは、父がコペンハーゲンに留学していたときに親しかったK先生(日本人)宅にお邪魔して、夕食をご馳走になった。

 ホテルにもどり、翌日は買い物と博物館巡りをして空港へ。盛りだくさんのフリーツアーを楽しんで帰国の途に就いた。

 自宅には午後8時すぎに帰った。妻と2人、旅の余韻に浸りながら、気になっていたKさんの容態を聞こうと、研修医の中でいちばん気心の知れたOに電話をした。すると、Oは受話器の向こうでかすかに笑い、こう言った。

「ア・リトル・バッド・ニュース」

 Kさんはその後、重症の肺炎になって、ICU(集中治療室)に入ったというのだ。当然、ネーベンのN君では対応できず、仕方なく同じオーベンのYが代理で担当してくれたらしい。

 患者が重傷化しているのに旅行に行ったのも言語道断だが、留守中の代理を頼まずに行ったことが大きな非難を呼んだ。1年前のオーベンたちは、きちんと代理を頼んでから海外旅行に行っていたのだ。しかし、ボクはそれを知らなかったので、N君にすべてを任せて行ってしまった。

 旅行から帰った翌朝、午前7時からはじまるICUの申し送りに参加すべく、30分前に出勤すると、Kさんはすでに回復して、もとの病室にもどっていた。

「長い間、留守をしてすみませんでした」と謝ると、Kさんはやつれた顔で、「この1週間のことはほとんど覚えてません」と言った。その目はすでに、ボクを受け持ち医とは見ていなかった。

 指導医にはどれほど怒られるかと覚悟していたが、どの指導医もボクを見て、ため息をつくばかりで、叱責らしい叱責はなかった。N君には申し訳なかったので、当直を代わりにしたり、病棟の雑用を手伝ったりした。

 外科研修の最後の日、看護師長に挨拶に行くと、「もう少しきちんとした先生だと思ってたけどね」と、完全に見捨てた顔であきれられ、それは少しばかりつらかった。